女性には、ケアの仕事が回ってきがちである。炊事洗濯に育児介護まで、手を酷使する環境に身を置きやすい。
その一方、手の美しさを求められるのもまた、女性である。指先を彩るネイルやハンドケアが、女性のたしなみのように語られる。これは一体何なのか。
流行りの指輪を試したけど、私の指に合うサイズがなかった…
去年くらいから、指輪が流行しだした。しかも、一つだけではなく、何個もつけるのがオシャレのようだ。流行に聡い大学の友達は、両手に華奢な指輪をいくつも重ねてつけていた。オシャレに疎い私でも、とても魅力的に感じ「あーいいなぁ、私も指輪したいなー」と思った。
そして帰り道、新宿のルミネのアクセサリー屋さんに立ち寄ってみることにした。さすが流行っているだけあり、様々な指輪が所狭しと並べられているのを見てドキドキした。お値段は、ちょっと高めだけど「来月バイト頑張ればいっか!たまにはね!」なんて思いながら、目にとまった指輪を試しにつけてみることにした。
なんと、第一関節から先に入らない。あこれ小さいやつなんかなと思い、適当に他のものを手当たり次第にはめてみる。なんと、どれも入らない。え、そんなことある? と思い、恥を忍んで店員さんに「これより大きいサイズってありますか?」と聞いたところ「ない」と答えられた。
私の指に合うサイズの指輪はなかったのだ。まるで、オシャレ界の落伍者認定を受けたような気分だった。改めて自分の指を見た。ソーセージのように太く節くれだち、関節にはシワがたくさん寄っている、まるでおばあちゃんのような手だ。
幼い頃から家の手伝いや兄のケアをして、シワシワの「私の手」
なんで私の手は、こんなにおばあちゃんみたいなんだろう。指輪サイズなかった事件以降、根本的疑問について考えるようになり、自分のこれまでを振り返ってみた。
小学生の頃から、炊事や掃除などの家事を手伝った。「女の子なんだから、家事はやりなさい」そう言われた。高校から、飲食店でバイトをした。また、兄が重度の知的障碍者ということもあり、小さい頃から様々なケアをしてきた。ケアとは、圧倒的に手を使うことが多い。髪を洗ってあげたり、ご飯を食べさせたり、服を着替えさせたり。手で汚れを拭い、手で温め、すべてが手から始まる。
私の身体の中で、最も社畜なのは心臓で、その次は間違いなく手であろう。それくらい、私にとって生きる上で手の負担は大きかった。右手にはペンだこが、雑巾を絞りまくる手のひらにはマメができている。バイトや家事をするため、爪はいつも短いし、ネイルもできない。
大学では、皆当たり前のようにネイルをしていて、手もつやつやだ。「新しいネイル可愛いね!」という誉め言葉が、毎日のように飛び交う。ネイルもせずシワシワ手の私は、少し浮いて見えることもある。
しかし、これが男性だったならばどうだろう。手先が評価対象になり、こんなにも意識することは果たしてあるのだろうか。
「かわいい女の子の手」ではないけれど、私の人生が刻まれている
「女の子なんだから」と言って、押し付けられる家事やケア。そして、“女の子だから”手先は美しくという意識。どうあがいても矛盾する。日々を生きる上で、手が荒れないなんてことは私にとっては不可能に近い。いくら良いハンドクリームを使おうが、荒れるものは荒れる。太い指は努力で細くははらないし、シワは消えない。
それでも、細くて華奢で、爪先はピンク色の“かわいい女の子の手”ではないけれど、アクセサリー屋さんに指輪のサイズはないけれど、それでも私のこの手には、私のこれまでが刻まれている。
いろんなものを綺麗にして、水に揉まれたシワシワでパサっとした手は、私の生き様を映している。私はこのおばあちゃんのような手を、美しいと形容したい。毎日健気にいろんなものをケアするこの手は、たとえ荒れていたって美しいのだ。
そして、それは私だけでない。刻まれたシワの一つ一つは、優しさと苦労の証。「日々頑張るすべての手は美しい」と私は言いたい。