小説家の二葉亭四迷が「I LOVE YOU」を「私、死んでもいいわ」と訳したという話がある。「あなたのために死んでもいいくらい愛している」という意味だろうか。
きっとこの言葉は、自分自身を犠牲にして捧げられるほど、純粋な子供か覚悟を持った大人にしか使えない。

「家にいるのがつらい」。彼の言葉に幼少期からの記憶が駆け巡る

高校3年生の初夏、バイト先の男性と仲良くなった。きっかけは曖昧で覚えていない。それほど自然に彼とは仲良くなれた。
はっきりと関係が変わったのは彼の8月の誕生日、私が電話で彼にお祝いの言葉を伝えようとした時だった。
時刻は夜11時半。手短に伝えるつもりだったが、彼が苦しげにこぼした「家にいるのがつらい」の言葉にただ事ではないと感じた。いつも明るく、友達に囲まれている、頼れる普段の姿と対称的な脆さに戸惑った。
「ごめん、こんな話して」と苦笑いする彼の声に自分まで苦しくなる。頭の中では、幼少期から高校に上がるまでの記憶が駆け巡っていた。

私の親は、私が7歳の時に離婚している。幼い子供だった私から見ても両親は仲が悪く、お互い傷つけあっていたように思う。どちらにも悪い所はあったし、テレビでは最近の日本の夫婦は3組に1組の割合で離婚するというので幼心にしょうがないことだと思っていた。
だがそうだと分かっていても、親の喧嘩やどちらの味方なんだと迫る視線、常に悪い機嫌は私の精神を大いにすり減らした。毎日親の機嫌を伺って、良い子でいなくてはいけなくても誰にも苦しいと言えなかった。

誰かに隣にいてほしい、不安感や孤独感を共有して、「お前はよく頑張っている」と肯定して安心させてほしい。それが心の奥底からの欲求だったが、叶えてくれる人はそばにいなかった。
毎夜行き場のない感情が涙を押し出した。親が離婚する頃には大人を信用できなくなっていて、家でも学校でも本当の自分を表現出来なかった。

彼の震える声に重ねる経験。私達の間には深い繋がりが出来ていた

まるで彼が幼い頃の助けを求める私のようで、彼を救いだしたかった。自分のつらい経験を彼に話し、彼の話を聞いている間、私は彼の震える声に幼い時の自分の感情を重ねて涙が止まらなかった。
世の中には私達と同じような経験をした人がたくさんいるのだろう。でも経験を共有できたのはお互いだけだった。
「よく頑張ったね。えらい。私がそばにいるよ」
それが私の口からこぼれた言葉で、彼の口からこぼれたのは「大好き。ありがとう」だった。

一通り話が終わった時、私達の間には深い繋がりが出来ていた。お互いを信頼し、心から思いやれる。これがどれほど難しく、特別なことか私は知っていた。それはまるでお互いの足りない部分を補うように、2人が1つに溶け合っていく感覚だった。
時刻は午前4時半。新聞配達のバイクの音が夜明けが近い事を示していた。

彼とはさらに親密になり、お互いの価値観が似ている事を知った。彼と過ごす時間はまるで充電するように心を満たし、癒し、安心させてくれた。日曜日の昼下がりに陽だまりの中でうたた寝するような幸せだった。
激しく燃え上がり胸が高鳴るような熱さはなかったけれど、とても温かかった。

彼は一時的に不安定になっているだけ、この関係もいつか終わりが来る

10月。もう夏の暑さはなくなっていた。
彼との変わらない関係の中で私は考えてしまう。この関係にもいつか終わりが来るという事を。彼は一時的に不安定になっているだけで、安定すれば私は用済みなのだと気づいてしまう。
さらに私は知ってしまった。私が彼のタイプの異性ではなく、自分から告白するほどではないが私から告白すれば付き合うのもありだと言っていた事を。
中学生の頃の私なら、迷いなく告白していただろう。でも今は違う。私は愛を無償で与え続けられるような聖母じゃない。そして飽きたら捨てられるオモチャにもなりたくなかった。

たしかにお互いが特別で好きだった。だから私達は戦友のようなお互いを補い高め合う関係を築けた。私はこの関係を続けたまま、恋人としてあなたの隣に立ちたかった。
でも彼が恋人に望むのは盲目に愛し合うような熱い関係で、私は当てはまらなかった。このまま一緒にいてもすれ違うだけ。
だんだんと彼がつらい時だけ繋がるようになった通話も、雑になっていく態度も私は耐えられないし、自分を犠牲にし続ける事も出来ない。酷く薄情で自己中心的だと批判されるかもしれない。でも私は私のもので、他者から一方的に私を消費されるのは許せなかった。

まだ彼は私の中で特別なまま。彼の笑顔を、涙を、思い出を失えない

12月の冷たい風で指先が震える。私は彼のSNSのフォローを外し、新しいバイトを探しながら彼には素っ気なく接した。

バレンタインデーが近い今日この頃、彼との関係は終わっているのに、ふとした時に彼のことが頭に浮かんで胸を締め付ける。
自分から離れたくせに、まだ彼は私の特別のままだ。私は彼の笑顔を、涙を、そして思い出を失えない。中途半端な自分の臆病さが嫌になる。
もし私がもっと大人だったのなら違う道があったのだろうか。手元のココアがしょっぱくなっていく。私はあなたのために死ねなかった。