「大人は子供より優れてるんじゃない、廃れてるんだ」
25年生きてきて、割と最近まで思っていたこと。
大人までの距離は0km、もう大人になってしまった自分。
ただ、まともな大人までの距離感となると、あと……42.195kmほどだろうか、適当に。

立派な大人になるため全力だった昔の自分と、社会人になった私

10年前、まだ中学生だった自分は、毎日早寝早起きをして規則正しい生活を送り、勉強も部活も全力だった。
それはいずれなる「大人」というもの――自分でお金を稼いでたくさん税金を納め、規則正しい自立した生活を送る。そして結婚し家庭をもつ、それが大人――そんな立派な人間になるためには、今からこれくらいきちんとしていないと辿り着けないものだと思っていたからだ。

社会人になった。自分でお金を稼いで、たくさん税金も納めている。だが、残業が多いことをいい理由に、実家暮らしの自分はやるべきことも家族任せにすることが増えた。
昔は部活に明け暮れた休日も、今は「出会いなんてないよね~」と同じ境遇の仲間と愚痴を言い合う時間に変わった。辿り着くべき「大人」とは明らかに違うことを感じる、できていたことができなくなっている実感もある。
晩婚化や生涯未婚率の増加といった、時代の流れのせいにして今の自分を正当化していいのか、とっくに気づいているはずのその問いに答えるように劣等感と焦燥感がいつも心に付きまとう。もやもやと晴れない気持ちを仕事でかき消す毎日。昔の自分が向かっていたのはこんな大人だったのか。

日々の努力が諦めない理由になる。昔の自分が今の自分につながった

ある日、中学の同級生と連絡をとる機会があった。その子は既に結婚し、子供もいる。
「もう立派なママで尊敬するよ」と心から思ったことを伝える。いくつかやり取りを交わした後、その子が聞いてきた。
「今も走ってる?」

自分には中学時代からずっと続けていることがある。
走ること。中学で駅伝に出会って以来、ずっと走り続けている。
地元のマラソン大会に始まり、トレイルランやリレーマラソン、社会人になってからは県外の大会やウルトラマラソンにまで挑戦するようになった。

「普通続けられないんだって。すごいよ、こっちこそ尊敬!いい趣味あって羨ましい」と言ったその子の言葉から、ふと思った。

確かに、周りに自分ほど何かをずっと続けている人はいない。いや、みんな続けないのではなく、続けられないのか、と。
家庭はなくとも時間がないのは自分も同じだが、それは諦める理由とは考えなかった。走る時間を早朝にしたり夜中にしたり、それだけのこと。
でもそれを可能にしているのは……昔の規則正しい生活により培われた健康体と、日々の努力で進化し続けた体力のおかげなんだと。

やっと、昔の自分が今の自分につながった。大人になることで失われる時間を、何も手放すことなく上手く使いこなしている……あれ、そう考えるとなんか自分かっこいいかもしれない。
叩き直さなきゃいけない部分ももちろん多々ある、でも廃れてなんかいない。自分の中で大人の印象が少し変わった気がした。今の自分だからこそ、ここから目指せる「大人」がある。

距離感はあと、42.194km。この気づきを第一歩に、走り続ける

42.195km、自分はそのうんざりするほど長い距離感を知っている。でも、完走することが不可能ではないことも、知っている。
努力の分だけ軽く速く、また見える景色も変わってくる。

限られた時間を貪欲に生きる、やるべきことを諦めない(自立も忘れず)。
最高にかっこいい大人までの距離感はあと、42.194km。
この気づきを第一歩に、走り続ける。
私は廃れない、今もこれからも。