私は、これから書くことを「元気」のためにしているかどうか、それは本当のところは分からない。ただ、少なくとも、自分が自分であるために、私はこのことをやめることはきっと出来ないだろう。

私だけの人生を送りたいと思い、「走る」ことを自分の軸にした

それは自分の中の軸でもある。「走る」ことだ。
ランニングシューズさえあれば、基本的にはいつでもどこでも出来てしまう。実にシンプルだ。それであってかつ、奥が深い。
普段の私は、会社の中の、組織の中の一員でしかない。正直、私でないといけない、といったクリエイティブな仕事ではない。
そう、私でなくても、いや、明日から私がいなくなっても、また次の人がきっと私のあとに同じ机に座って仕事をする。あくまで、「かえ」のピースは存在する。
通勤の時だってそうだ。満員の電車に押し込められ、私はその無数の中の1人でしかない。
私のことを見て、「あの人だ」と注目する人なんて、誰1人いない。そう、私はこの世の中を動かしていくような大物ではない。ごく普通に、どこにでもいる29歳の女性でしかない。
昔から、「有名になりたい」という野望を少し抱いていた。みんなと一緒、というのが好きではなかった。
どうしたら注目を浴びることが出来るのだろう。けっこう考えることが多かった。今も考えている。
みんなと一緒は楽だけど、楽しくない、面白くはない。ありきたりの人生は私でなくても送ることが出来る。私は私だけの人生を送りたい。そんな気持ちを普通に社会人になった後も捨てきることが出来なかった。
私は自分にしか出来ないことを1つは自分のものにしようと思った。それが「走る」ことだった。

自分自身が特別だと、自分に言い聞かせるためには最高のマラソン

特にマラソン。それは、普段の普通の自分から、少なくとも自分自身が特別だと自分にいい聞かせるためには最高のものだった。そして、何事もスロースターターの自分にはびっくりするほど合っていた。後半になると、俄然、スイッチが入る。まさに「ゾーン」突入である。日常を送る中で、常に考え事をしている自分にとって、走る時間は「無の境地」であり、それは走る辛さよりむしろ考えなくて良いという楽な時間であった。
記録を出せば、それは自分にしか出せないものであり、究極の自己満足であった。ライバルに勝つよりむしろ自分に勝つ、というありふれた言葉がマラソンにはぴったりだ。
自分の限界を突破していくたびに私は自分自身の殻をどんどん破っていく感覚を得た。それは、普段の生活では絶対にない、お金では買えないかけがえのないもので、同時に自分の自信にもつながった。
大会やレースに出た後、日常に戻ると、何事もなかったかのように月曜日が始まる。
すると、不思議なくらい当たり前にまた時計が日常に戻っていて、昨日のレースの結果など、誰も知らない。そうして私は「自分が特別な存在だったのはあのレースの中だけだった」という現実を思い知ることになる。
しかし、その、いわゆる夢のような空間と現実とのギャップがどこか心地良く、これこそが「市民ランナー」なのだろう、と思いながら机に向かう。筋肉痛の足を密かに引きずりながら。

思いっきり風を切るのは「私」で、額に浮かぶ汗は「生きている」証拠

たしかに、世の中を動かすような大物にはなれない。だけど、誰だって、「自分が特別だ」と思いたいのではないのだろうか。私はたまたま「走る」ことによって、それを感じることが出来ている。運が良いのだと思う。
そして、「みんな悩んでいるのは同じ」とか「みんなそうやって苦労している」と、なぜか、大多数の人々と同じにされることに、ちょっとだけ嫌な感じをいまだに抱いているのは、私がまだ大人になれていないということなのだろうか。
子供の頃、ちょっとだけ注目された時の喜びを私は今でも大切に生きているのだろう。今、世の中からイベントが消え、市民ランナーが走れる大会は軒並み中止となっている。それでも、私は今日も明日もランニングシューズを履いて、地面を思いっきり蹴る。
そう、この風をこの瞬間切っているのはまぎれもなく「私」。そして今日のこの瞬間、額に浮かんだ汗は私が「生きている」という証拠。
仕事では勝てない人にだって、女子力では劣ってしまう相手にだって、「走り」ならきっと勝てる。そう信じて。