小学生の頃、入学式で手を引いてくれた6年生のお姉さん達が立派な『大人』に見えた。
私もいずれそうなるんだ、とワクワクしていたけれど、6年生になれば想像していたお姉さんはどこにもいなくて、今度は中学生の人たちが『大人』に見えた。
そうして、高校、大学と年を重ね、とうとうそういった垣根がなくなった瞬間、世間の言う『大人』の枠に入った気がした。

やっと入った『大人』の枠にはテンプレの会話が用意されていた

その枠の中には透明な区切りがあって、『三十路』『四十路』『五十路』と年齢ごとに区別され、皆年齢が高くなればなるほど忌み嫌う傾向があった。子供の頃は早く年をとって、あの立派なお姉さんに会いたかったものだけど、ここまで来ると“老い”をどう遠ざけるのかが重要らしい。
逆に70を超えると人は年齢を自慢したがるが、アレはきっと大人の枠ではなく、『老人』の枠に入るのだと勝手に思っている。その枠内では、数字は大きければ大きいほど胸を張れる。
要は、そういった概念を、生きているうちに各々勝手に形成してその中で私たちはそれぞれの『大人』の振る舞いをしている。

私の場合、『大人』に対して抱く感情は最初は憧れだった、あのお姉さんに会いたい、と。それが段々と世間の概念が入ってきて、皆の形成している『大人』になった。『大人』になったら、それぞれテンプレートの会話の種があるので、それを持ってきてお喋りをする。三十路は婚期・子供・仕事、四十路はしわ・たるみ、五十路は病気……。まぁ、そう言った感じのイメージ。
近年大人の概念が少し崩れてきて、美しさを保つ技術もメキメキ上がり、綺麗な人が増えてきた。そんな人に用意された枠は『美魔女』と呼ばれて、もう人間すらを超える。

三十路と四十路が話すときは、四十路は三十路を羨ましがらねばならない。三十路は四十路を尊敬しなければならない。
三十路と五十路が話すときは、五十路に年齢を聞いたなら「そんな年齢には見えない」と言わねばならない。五十路は尊重されなければならない。まさに年功序列の世界。

私は合わせているのに…『大人』の枠を無視しても愛される人

私はとても良い子で、人の期待に答える人だから、そんな『大人』の会話はいくらでも延々と出来る。

嘘。ずっとやってたら死にたくなる。

だけど、ずっとやってきた。私はもう『大人』だから、『大人』らしく振舞っていた。年上の人とおしゃべりする時は緊張感を持ったし、失礼のないようにキチンとした恰好でいた。真面目でしっかりした印象を持たれた方が『大人』らしいから。
しかし、そんな枠を全く無視しても愛される『大人』が存在する。愛嬌だとか天真爛漫だとか天然だとか。私はそういう人たちが優遇されているのを見て、心底嫌だった。私より認められているのを見て心底腹が立った。
でも、私はとても(社会にとって都合の)良い子で、(自分より)人の期待に答える人だから。
皆が望む『大人』を形成して、その枠に収まってニコニコと、或いは眉間に皴を寄せて不平不満に同調して見せた。

枠を持たない友達に出会い、『大人』の枠を作り直そうとした

本当は、顔にしわが増えることはそれだけその人が表情を作ってきた証、生きてきた証だと思って悪い事じゃないと思っていたし、結婚がすべてじゃないって思ってきた。
だけど、私がちょっとそういう事を言えば、「まだ若いからそんなことが言えるの。この年になれば分かるから」と一刀両断された。そうして私のいるべき枠に納められてきた。
どうやったって年齢の垣根は超えられない。私が若いばっかりに、私が軽んじて見られている。それがやがて耐えられなくなって……。

垣根を壊すために職を変えまくった。世間に逆行してみた。私が思っていた『大人』の枠をもう一度つくり直すために……。

そんな勇気がどこから湧いて来たかと言えば、『大人』の会話に疲れた私の前に、枠を全く持たない友達が出来たから。
彼女は当時五十路の人だった。当初私は友達と思ってなかったが、彼女が勝手に私を友達と認定していた。
「何があっても大丈夫、大丈夫!案外生きれる!」と笑う彼女は、私の『大人』の枠どこにも入らなくて、戸惑っているうちにいつの間にか私は新たに彼女の枠をつくった。
それが『友達』。不思議なことに私が枠を壊す作業を始めれば、年齢の壁は崩れ去り、その枠に入っていた人たちが『友達』に入ってきた。

今じゃ上は72歳、下は8歳という幅広い年齢層の友達が出来てしまった。
そうして誰とでも気兼ねなくお話しできるようになった。誰とでも馬鹿みたいな話で笑えるようになった。昔の私が見たら、指を咥えて羨ましがるような“私”になった。
皆が皆お友達、なんてことはないけれど……。年齢で『大人』に抑え込まれることも押さえ込むこともなくなった。

まぁ、それでも時折、枠の中で生きる『大人』に出会うことがある。
その時私は、とっても(自分に都合が)良い子なので、その人の期待通りの『大人』の会話もできるのだ。
そして、あぁ、懐かしいな、この抑圧感……なんて思いながら、心の中でゆっくりとゆっくりと世間の『大人』から距離をとっていくのだった。