自分が「大人」と見なされうる存在なのだと気づいたのは、大学に入って数か月の頃で、それは少し怖い経験でもあった。

20歳の誕生日。「子ども時代」があっけなく終わって、はっとした

私は入学前から大学で専攻したい分野があったため、教養の授業の時点で、その分野の先生から個人的にお話を伺う機会を持っていた。
その先生は私の親ほどの年齢の男性で、非常に面倒見がよく、私が自分で気づいていない性格や思考の癖についても鋭く読み取って、自らの経験談や様々な逸話を引きつつご助言くださった。

そしてお酒が入った先生は、私への好意をも明らかに述べた。私には決して嫌悪感はなく、しかし自分では子どもだと思っていたのが、一人の女として、あるいは性的対象として見られていたということが、嬉しくもあり怖くもあった。

翌年、20歳の誕生日を迎え、生まれてからこの方過ごしてきた「子ども時代」があっけなくも一応は終わってしまったことに、はっとした。そして、きっとこのように、ある日気がつけば年老いていて、あっという間に生涯を終えるのだろうと思った。
その年の間、2組の同級生が同じようなことを話しているのを耳にした。

社会人になったが、半人前の女子新入社員であらざるを得なかった

法律上は成人であっても、実家暮らしの学生である間は「大人」という実感は希薄だった。
就職すると、いわゆる「社会人」として「責任」ある仕事や振る舞いをしなければと気負うようになった。しかし、この職場はわりとヒエラルキーの強い風土で、新入社員が自身の意見を述べることが必ずしも歓迎されず、権限もない代わり責任も負いようがないといった雰囲気を感じていた。

新入社員はいつも半人前であるのに加え、女性という属性が有徴的な職場だったと思う。仕事上接する多くの男性社員にとって、若い女性社員は潜在的に性的な対象であるか、男性社員とは異質な気を遣うべき存在のようだった。女性社員ら当人たちも「女子社員」としてのアイデンティティを持ち、いくつかの派閥に分かれていた。

ここにおいて私は、一人前の大人というよりは、半人前の女子新入社員であらざるを得なかった。

各々が自立した職場で、初めて一人前の大人になりえた気がした

その後に勤めた会社ではそうではなかった。その職場で私は、正社員としては唯一の女性であった。
初めこそ、女性の視点で気になることがあったら言ってほしいとも言われたが、そこでは性別も新入社員であることも、不必要に有徴化されることはなかった。
皆と一緒に働き、意見を述べ、現時点で困難のあることは相談する。当たり前に一人前で無徴なものとしての大人に、私は初めてなりえた気がする。

後者の職場の人々に共通の特徴として、まず各々が自立している。すなわち、人に自らのケアや不当に多くのことを求めない。ただ、他人に興味がないというわけではなくて、黙って周りをよく見ていて必要な助力をくれる。
自分よりも一歩大きな世界を、よい面も悪い面も多角的に見て意見を持っているが、然るべき時にのみそれを提示する。皆が「大人」である職場だと思う。

それで、「大人」な人とは、相手を自らと対等な大人として遇することのできる人ではないかと暫定的に結論している。