大学3年生、絶賛就活中。長期インターンはしていないけれど、1dayインターンにちょこちょこ参加して、それから日々部活に精を出しています。
小説家や脚本家なんかになれたら素敵だなと思うけれど、今はただの趣味でしかありません。
名刺は大人の通行証。それがあれば大人の世界で対等に渡り合える
……ということを示すのに、名刺はいらない。そもそも、作りようがない。
これが起業でもしていれば、あるいはクリエイターとして仕事をもらえる立場であれば、私の手元には名刺があったのかもしれないけれど。
そんなことを考えるようになったのは、とあるイベントに参加したことがきっかけだった。
映画監督と脚本家、そしてテレビ局のプロデューサーが登壇したトークショーだった。イベントが終わった後、参加者のうち数名が、登壇者に挨拶をし、名刺を差し出していた。それを見て、ああ私にも名刺があれば、大人の世界で対等に渡り合えるんだ、と思ったのだ。
それから、ゼミで先生の大学時代のご友人に会ったとき。その方から名刺をいただいたのだけれど、私からは何もお渡しすることができなかった。
私は相手のお名前や、どんな人であったのかを覚えているし、たしかに交流したという事実を名刺が今も示してくれているのに、向こうからしたら「何人かいた学生のうちの一人」でしかないのだろう。
そして知った。相手にどんなに近付きたくても、まだ何者でもない学生は、対等には扱ってもらえない。向こうがどんなに対等に扱ってくれようとしても、完全に対等にはなれない。
それまでは名刺なんて、手のひらサイズのビジネスライクな紙きれでしかないと思っていたけれど、あれは大人の通行証だったんだ。
私もあれがほしい。そう思うようになった。
名刺が大人の通行証に見えたときの感覚を持ったまま、大人になりたい
いまは就活中。無事にどこかの企業に就職が決まって働き始めれば、一年後の春には嫌でも名刺を手に入れて、どう差し出すだとかどう受け取るだとかいう細かいマナーを覚えて、だんだんとその行為を特別視しなくなるのかもしれない。
大人の通行証は子どもにとっては特別なものに見えるけれど、大人にとっては当たり前のものなのだから。
でも私は、名刺が大人の通行証に見えたあのときの感覚を、ずっと忘れたくない。
その感覚を持ったまま大人になりたい。
名刺は自分が相手と対等に渡り合うための大切なものであって、それは相手にとってもまたそうであるということ。忘れかけた名前を思い出すためだとか、そういえばあんな人いたなー、使えそうだなーと思ったときに連絡するためだとか、そういうドライな使い方はしたくない。
名刺なんてなくても覚えているし、立場なんてなくても一人の人間として尊重しあうけれど、大人のルールのなかで対等にやっていくことを忘れない、そのために名刺がある。
自分は大人なんだということを忘れないように、大人として振る舞うことを怠らないように、あのとき大人に抱いた憧れを忘れず矜持に変えて、背筋を伸ばすために、名刺がある。
子どもっぽい妙な憧れが、そういうふうにプラスに働けばいいな、と思う。