頼り甲斐のある、優しい異母兄。そんな彼は突然死んだ

私には兄が2人、1人は異母兄だったけれど、歳の離れた妹に対して彼はとても優しかった。
幼少の頃、居心地の良くなりきらない親戚の集いで顔を合わせた時も、兄はあちらから私ともう1人の兄を見つけては遊んでくれた。追いかけっこやかくれんぼで息が切れてきた頃に決まって両手で後ろから未だ小さな私たち兄弟を抱きしめて耳元に唱えた。
「愛してるよ、俺はお前たちを。大丈夫だからな強く楽しく生きろ」
頼り甲斐のある、けれど少し鼻にかかった特徴的な声、大好きだった。

そんな彼は突然死んだ。
人が死ぬということへの悲しみの体験は、幼い私には最初のことであった。それがあまりに辛すぎた。
大人たちが教えてくれる「お兄ちゃんは死んだ」という言葉は頭に入ってくるけれど、何度繰り返しても分かった気がしなかった。
お兄ちゃんの顔がひたすら浮かんだまま。怖くて寂しくて涙が止まらなくてただ会いたくて。これが悲しみなのだと、大きな悲しみなのだと知った。

当時、兄はお腹の病気で死んだと聞かされた。体が弱かったので、突然死とはいいつつ体調不良が続いていたのだと。
もちろん幼心、信じていたので、そこから数年たち実の兄も同じようにお腹をしばしば壊したり、私よりも病気をしやすいことを感じる度、必要以上に心配するようになったものだ。

ひょんな流れで知った兄の死の真相。絶望し、死生観について考えた

やがて中学生になった頃から海外志向の強かった私は、高校生になって留学をした。
語学や外国の文化など勉学やエンターテイメントにおいて好奇心旺盛な私の様子はどうやら生前の兄の若い頃にそっくりだったようで、親類が稀に集まるとそんな話をするようになった。
ある年の初め、久しぶりに集った宴会の席で語られた想い出話は、いつもより増して盛り上がった。その流れでひょんなことから兄の死が自死であり、幼すぎた兄と私の心に影響が大きいことを配慮し、突然死と告げられていたことを知ったのだ。

真実ではないことを知らされていたショックはもちろんあったが、何より人を愛し愛され豊かな感性と趣味の中に生きていた憧れで大好きな兄が、自らその命を終えてしまったこと。人の人生とはもしかしたらつまらないものなのか、兄には価値のないものになってしまったのか。絶望した。
教えて欲しかった。
でもその答え次第では、私も生きる健闘をできなくなっていたかも知れない。
それから暫くは私自身成人もしていないのに死生観について深く考えるようになっていた。答えが出るものではないのに考えて考えて、とても辛かった。

久しぶりに写真を見た時気づいた。兄が確かに過ごした幸せな人生を

また暫く時が経ち、実兄が結婚をした。
小さい頃から奇妙な家族図の中で共に支え育ち合ってきた相棒のような兄の門出、大きな寂しさとそれ以上の幸福が心に同居する不思議な体験である。
兄の披露宴では兄の人生の片鱗が無数の写真で飾られていた。その中には勿論亡くなった兄もいて、久方ぶりにまじまじとその写真の表情から動く兄を連想した。そうしてみると兄は穏やかに、父に似た控えめな八重歯をちらつかせて、記憶の中に沢山笑いかけてきたのだ。
懐かしさと愛おしさで涙が溢れた。そしてその時気づいたのだ。兄が確かに過ごした幸せな人生を。年齢や人生の終え方だけで兄の人生を決めつけようとしていたのか、と。
私の記憶の中だけでもこんなに幸せそうに生きている。ならば、その何倍も豊かで濃い人生を兄は生き、兄のゴール地点まで疾走したのだろう。美しい、そう感じた。

この経験を境に、私は新しい死生観を得た。あくまでも自死を肯定することはしない。やはり人は生きようとすべしと思う。その足掻きや苦悩の中で、美しい鱗粉を振り撒きながら生きることができる。
それを気づかせてくれた兄に感謝を伝えるには、私の人生を精一杯生き切らなければ面目無いと思った。 
兄の魂を引き継いで、以前より少し、強くなった気がした。