心のどこかで、大学生活は高校の延長にあると思っていた

2022年4月1日に、私は成人する。

高校を卒業して1年。地元の大学に進学した私は、実家で家族と暮らしている。料理や洗濯は母がやってくれるので、私は家事をすることの大変さをまだ知らない。
家と学校の往復に、バイト先が加わっただけの日常。そんな、高校生のときとさして変わらない生活に、大学は高校の延長にすぎないと、私はそう思っていた。

だけどこの1年の間で、確実に変わったと感じることがある。色々な人と新しく出会ったとき、私は「大人」にならざるを得なかった。

例えば、大学生の子供を持つ、私の両親と同じような年代の人と知り合ったとき。私はもう、小さい頃に友達の両親と話していたときのような接し方ではなく、礼儀・作法を意識しなければならないのだ。向こうも私のことを一人の「大人」として見ているのが肌で感じられた。
もう一つ、私は「自由」と引き換えに「責任」を背負わされるようになった。成人すると、自分で契約を結んでクレジットカードを作ることもできるようになる。それはつまり、モラトリアム期が終わってしまうということ。

成人年齢引き下げのニュース。待って、まだ準備ができてないのに

このままずっと、大学生でいる間は、社会的責任の免除の恩恵を得られると思っていた。猶予の期間が短縮されるというニュースを聞くまでは。一気に戸惑いと焦りが襲い掛かるように私を包んだ。

待って!私はまだ、大人になる準備も心構えだってできていないのに。
それにどうして、成人年齢は引き下げられるのに、成人式は従来通りの時期に行われるのか。それから、飲酒・喫煙は健康上の理由で20歳からしか認められない。
なんともアンバランスで、フクザツなシステム。1つのことにばかり意識が向いてしまうような不器用な私は、社会の変化に対応できるだろうか?社会人としての「自覚」というものは何をしたら身に着けられるの?

今まで誰も教えてくれはしなかった、深くて難解な問い。私はそれに、どんな答えが出せるだろうか。
ある日私は、大人になることで親権から逃れる、ということを知った。それは、自分で財産を管理することも、住む場所を決めることだってできるようになるということ。私はそれを聞いて、ようやく自由を手に入れられるんだ、と思った。大人のスタートラインを踏むことをきっかけに、こんな私でも変われるのかもしれない。

思い返せば私は両親の顔色を伺ってばかりだった。自分の進路のことも、母に言われたように決めて、自分で考えることをしなかった。だけど私はもう、自分の事は自分で決められるようになりたい。
最近母は、何でも思うようにやってみなさい、と言うようになった。今だって、家の門限は決められているし、母からは誰と付き合っているのかも報告しなさい、とは言われているけれど。母なりに、私を自立させようとしているのかもしれない。

私は私のペースで、納得できる答えに出会えるまで

私は、自分の意志で人生を切り開いていけるような大人になりたい。私の今年の目標は、一人でできることを増やすことだ。行ったことのない場所へ行ったり、一人で服を選んだり、好きなことややりたいことを見つけてみよう。

コロナで思うように動けないことも多いけれど、今だからこそできることを探してみるのもいいかもしれない。
来年、私は成人式に出席する。振袖に身を包み、豪華に着飾った私は、胸を張って立派な「大人」だと言えるようになっているだろうか。

かつての友人たちに、いつもそばにいる家族に、20歳になった私に、自分のことを一人前だと認めてもらいたい。すぐには大人になりきれないかもしれないけど、一歩ずつ歩み続けよう。何が正解かは分からない。それでも。自分が納得できる答えを探しながら、私は私のペースで大人の壁を登っていこう。