あの夜があったから、母と家族になれた。
22歳の冬の夜、わたしは死のうとした。
踏切の手前まで行き、カンカンカンと鋭い音が鳴り響き、遮断機が降りた。
飛び込むつもりだった。覚悟はできていた筈だった。
でも死ねなかった。

臆病な人間の前を通りすぎた電車は、青い電灯に照らされて、流れ星のようだった。
わたしは気を失ったらしい。救急隊や、病院、警察の方々に多大な迷惑をかける結果になった。
兄と両親は深夜に4時間車を走らせて、警察まで迎えにきた。仕事は解雇された。

母に言われた言葉は生々しく耳に残っていて一緒に暮らしたくなかった

うつらうつらしているうちに、わたしは地元に帰っていた。
見覚えのある風景に気がつくと、わたしは頭から水を被ったように目が覚め、「お兄ちゃんのとこで過ごす」と喚いた。

兄は一人暮らしをしていた。狭い部屋でみちみちに過ごすことも厭わないほど、わたしはどうしても実家に戻りたくなかった。
母と一緒に暮らしたくなかった。

「人間のクズ」
「社会のゴミ」
「食って寝るだけの家畜」
「生きてる価値が無い」
「死んでしまえ」

子どもの頃、何度も母から言われた言葉の数々は、耳に残る生々しい声の質感さえ思い出せるほど記憶に残っている。
わたしは母を憎んでいた。
自分のことが好きになれず、人間関係に悩み続け、仕事も恋愛も上手くいかず、様々な心身症を発症した。
それは、親のせいじゃない、自分のせいだと建前では思いつつ、本当はすべて母のせいにしたかったのだと思う。

兄の元で過ごしはじめて暫く経った頃、「親に顔見せに行こう」と兄に促された。どうしても母に会いたくなかったが、優しい兄にしては珍しく強く押し切られ、わたしは4年ぶりに実家の庭の砂利を踏みしめた。

何がつらかったの?と聞いてくる母に、黒い気持ちが我慢できなかった

よくかぶと虫が飛んできた裏山の木が伐採されて、ソーラーパネルが一面に設置されているのに驚いていると、母が玄関から出てきた。
警察に迎えに来てくれたときは、朦朧としていてよく見ていなかったが、皺が増えたなと思った。

母は拍子抜けするくらい軽やかな笑顔で、「あら、顔の傷、良くなってきたね」と言った。
兄と母が向かい合って談笑している間、わたしは離れたソファで毛布にくるまっていた。
ふたりの会話に興味がないようなふりをしていたが、突然母から「死のうとしたの?」と聞かれた。

条件反射で思わず「うん」と答えてしまったわたしに、母は「なんで?何がつらかったの?」と事もなげに聞いてきた。
わたしはむくむく黒い気持ちがせりあがってきて我慢できなくなった。

「あんたは、自分の言葉が子どもの心にどんな影響を与えてきたか全然わかっていない。クズだのゴミだの死ねだの言われ続けて育った子どもがどんな思いで生きるのか、あんたには人の心がないからわかんないんだ。みんな、わたしのことを『クズ』『ゴミ』『死ね』って影で言ってるような気がするんだよ。
そんなわけないって理屈ではわかってても、人の中にいると針の筵に立っているみたいだ。あんたのせいだ。あんたのせいだ」
最後のほうは、半狂乱になって泣き喚いていた。

母が言った「母親失格」に流した涙。それ以降、実家で暮らすように

母はテーブルに視線を落としていたが、やがて「ごめんね」とポツリと溢した。
「お母さんもあの頃は、精神の病気で色々薬も飲んでたから、あんまり覚えてないんだけど、あんたに酷いことを言ってたのは確かだと思う。それがどんなに悪いことだったか、お母さんは学もないからわかんなかった。
今、精神的に落ち着いて、友達の話やテレビで言ってることがスッと頭に入ってくるようになって、お母さんが親としてどれだけクズだったか、よくわかるようになった。母親失格だと思う」

そうだよ。クズだよ。母親失格だよ。
お前が『死んでしまえ』。

クズじゃないよ。母親失格じゃないよ。
自分のことで精一杯だっただろうに、わたしをここまで育ててくれた。

相反する気持ちが沸き上がってきて、全部涙になった。
わたしは、それから実家で生活することになった。新しい仕事を見つけ、今はそれなりに上手くやれている。

母とは度々衝突を繰り返しているが、お互いに話し合うことから逃げなくなった。感情的になってしまうこともあるが、和解できることもある。

あの夜、電車に飛び込まず、臆病でいられたから、母と家族になれた

休みの日には一緒に山に登る。
頂上からの景色を気持ちよさそうに眺める母の横顔を見て、「この人が、わたしのお母さんだ」と思った。
22年の長い月日を経て、やっと家族になれたと思う。

あの夜、電車に飛び込まなくてよかった。
臆病でよかった。
でもあの夜、人生の底を経験しなければ、実家に戻ることも、母と家族になることもなかったかもしれない。
人生に、悪いだけの出来事なんて、ひとつもない。
振り返ってみればどんな夜もわたしの血肉になっているし、これからもきっとそうなのだろう。