大人になってから、挨拶ができなくなった。
挨拶がきちんとできていた記憶があるのは、小学生の頃である。毎朝登校する時間になると、横断歩道の傍には「横断中」の黄色い旗を持って立ってくれる大人がいた。それは近所のおじさんおばさんであったり、学校の先生や誰かのお母さんであったりしたから、そこを通るときには必ず挨拶をした。
その頃、私は非常に「よい子」で、挨拶いやだな、とか、面倒くさいな、とか思うこともなく、素直に元気よく挨拶をしていた。何なら、挨拶をしている瞬間、一種の快感さえ感じていた。

小学生のときは簡単だった。なのに会社で「挨拶しなきゃ」と緊張

時はたち、今や社会人である。どんなビジネスマナーの本にも必ず重要だと書いてあること、それが挨拶である。
「良い印象を持ってもらうには、まず元気よく挨拶をしましょう」

なんだ、そんなの簡単じゃんと小学生の頃の私は思うだろう。しかしそれが、今の私には簡単じゃないのである。
社会人になった今、朝会社に行って誰かとすれ違いそうになると、「挨拶しなきゃ」と緊張する。朝からそんな緊張するのはいやだから、わざと人がいない通路を通って出勤することもある。
その日初めて会ったのにタイミングを掴めずに挨拶できないことがあると、「ああ、挨拶をしていない、こんなビジネスマナーの基本もできない私は社会人失格だ」と思う。
どうしてこんなに挨拶が苦手になってしまったのだろうか。それはある時から、挨拶がルールではなく、マナーだと気づいたからである。時と場合と相手に合わせて柔軟に変化するマナーは、私の苦手分野である。

ルールではなくマナーの挨拶は、面と向かって指摘されることはない

子どもの頃のわたしには、ルールとマナー、この2つの区別がなかった。社会に出れば、何でもルールだと思っていた。
例えば、小学校で先生から習ったことは「朝、出会った人には挨拶をしましょう」であった。大人の言う「しましょう」は、聞き分けの良い素直な子どもである私にとって、「しなさい」であった。
だから、その決まりを守った。よく知らない人であっても、地域の人だろうと思うと愛想良く挨拶をした。廊下ですれ違う先生が好きだろうが嫌いだろうが、必ず挨拶をした。すれ違う先生も、それを望んでいるかのように挨拶を返してくれた。

ところが今、大人になった。社会という場に出て、世の中の半分はルールで成り立っている一方で、残りの半分はマナーであることに気づいた。
挨拶をしないからといって、誰かに怒られることは滅多にない。周りをみれば、全然挨拶をしない大人だっている。
挨拶をしないことは、ただ、印象を良くする機会を失うだけで、ルール違反だと注意されることはないのだ。

ここがミソである。大人は自分で自分の行動を決められる一方で、多少愛想悪く振る舞ったとしても、面と向かって指摘されることはない。あったとしても、「あの人愛想良くないよね」と自分のいない所で言われるくらいだろう。
しかし、指摘されなければ、それで良いのだろうか。

大人の世界は広く、目標を100点と定めるのが難しい

私は子供の頃、100点という目標が与えられて、それにどこまで到達できるかチャレンジするのが好きな子であった。
対して大人になると、平均を50点としてどれだけ加点できるかが重要である。大人の世界は広く、目標を100点と定めるのが難しいから、仕方がない。

私は調子のいい日だけ挨拶をして、気分の優れない日は人を避けて通勤するような、いわば平均点すれすれで甘んじるような大人になってしまった。
挨拶ひとつ取ってみても、大人になればなるほど、「理想の大人像」からはますます遠ざかっている。