私は、ひとりが好きだ。
周りに気を遣わなくていいので。
でもひとり旅に出るまで、内に籠るタイプのひとりの時間しか過ごしたことがなかった。

その時の私は疲れていた。
朝起きて、仕事に向かって、遅くまで仕事をして、仕事のために早めに寝る。そんな毎日に疑問を感じながら、どうすることも出来ず過ごしていた。自分の中の、うれしい、かなしい、くやしいが、最近すべてぼんやりしてる気がする。
そんな時に貰った長めのお休み。
私は、奈良へひとり旅に出てみることにした。

誰にも迷惑を掛けないひとり旅だから、ゆったり、ゆっくり自分の時間

まず遅めの出発。いつ出発しても怒られないし、迷惑も掛けないので。
人身事故なんかで遅延しながらも無事到着してほっとひと息。今日はこれでおしまい。
なるべくゆったり過ごしたい。
長旅の疲れをしっかり癒して1日ぶらぶらするつもりだったので、次の日の朝も遅め。何度でも言うが、誰にも迷惑掛けないので。
ゆっくりモーニングを食べて春日大社へ。
朝の澄んだ空気を肺いっぱいに吸って吐き出す。自分の体の中が浄化された気分になる。

参拝の時になって、ふと周りを見渡した自分に気づいた。と同時に、その先に背を伸ばして祈る女性が目に入った。
その光景はとても神聖なもので、誰にも犯すことができない空間だった。
そして、これまでひとりが好きでありながら、ひとり、ということに対して周りの目を気にしていたなぁと気づいた。イヤホンで聴く音楽、癖のように握るスマートフォン、目線は常に下向きに。そんな生き方をしていたなぁと。
ひとり時間はかけがえのないものだったのに、心の何処かで恥に感じでいたのだなぁと。
その後、私も彼女を見習って、改めて背を伸ばして参拝をした。

カフェの店主と少しお話。人の目を見たのが久しぶりだなぁと感じた

散歩中に見つけたカフェでご飯を食べ、お店の店主と少しお話。
この時、なんだか人の目を見たのが久しぶりだなぁと感じた。毎日人に会って話をしているし、向き合っているつもりだが、何故だか不思議とそう感じたのだ。
ぶらぶらしながら考えてみると、恐らく「こうしたら相手はこう感じるんじゃないか、傷つくんじゃないか」と考えて、先回りしすぎて、純粋な相手の反応を「待つ」ということをしてこなかったのだと思った。

2日目は飛鳥の田舎道をサイクリング。
太古の昔、ここには教科書で習った人たちが生きていたらしい。そんなことを言われても、私にはピンとこないが、もっと勉強しておけばよかったとは思った。
そんな私だが、荘厳な建物の中よりなにより、自然の中にポツンと埋められた石碑の前に立った時(この頃には、周りを見ることなしに手を合わせることができるようになっていた)、本当にここに蘇我入鹿は生きていたのかもという考えが自分の中にしっくり染み渡ってきた。

そんな感じでのんびり過ごして、翌日の仕事に備えて早めに設定した帰りの新幹線に乗る。慌ただしい日常に戻ることへの焦りや、抵抗感を振り切るように新幹線に乗った。

どうか、この生もののような気持ちが、感覚が、すり減りませんように

私の日常は私に厳しいと思う。そして紛れもなく、自分で選んでしまった日常だった。
人に気を遣い、周りをよく見て、足りないところを補う。幅広い、多くの情報を頭の中に入れて、最適を取り出す。それが自然にできる人を、私は尊敬する。
私はそもそも気づくことが苦手だ。周りが見えなくなりがちだから。
苦手なことが求められる日常だから、ありのまま生きていたら、咎められるし、認めてもらえない。一生懸命やろうとして、出来なくて、すごく神経を使って生きているのだと思う。

いつもはできない自分に「なんでこんなことも出来ないんだ」なんて言葉しか掛けてあげられなかったけれど、この時はそんな自分のことを、まるで友人を励ますように、「なにそれすっこぐ頑張ってるじゃん」と言ってあげられた。

ビュンビュン変わる景色を見ながら、どうか、この生もののような気持ちが、感覚が、すり減りませんように、と祈る。
そしてまた、すり減ってしまった時の自分の取り戻し方を見つけた気がして、どうしようもない充足感を味わったのだった。