留学中、オーディションを受けるためにスイスからドイツへ向かう長距離電車のなかで、隣に座る女の子が「Haruki Murakami」の小説を読んでいた。題名はなんだったか覚えていないけれど、たまらなくなって「村上春樹、読んでるんだね」と話しかけてしまった。
その時はまだドイツ語に自信がなくて、それ以上話を広げられなかったのだが、「村上春樹が好きなの?」「面白い?」「日本には興味あるの?」など、色んなことを質問してみたかった。

日本語脳の私。ドイツ語を話せるように根本的な意識を変えた

村上春樹の小説は何冊か読んだことがあるけれど、文体に違和感があり、読むと彼の世界観に酔ってしまって少し苦手だった。
その違和感の正体に気がついたのは、私がドイツ語を話せるようになってきた頃だった。
私は英語は読めるけれど話せない、という状態でドイツ語を入れたのでなかなか苦労した。

そのうちに気付いたことは、ラテン語から派生してできた言語には、言葉の並びに同じような法則性があるらしいということ。それは日本語の語感とは全く異なっていて、日本語をそのまま翻訳しようとするとかなり難しい。
私は完全に日本語脳であったから、根本的にそこから意識して変えていかなければいけないんだな、と日常的に考える文法の語順をドイツ語に訳しやすいように習慣づけることにした。

すると、日記などにつける自分の文章を見てハッとなった。それはどこか、村上春樹の書く文章に近いものを感じた。彼は英語翻訳を行っているので、それが要因だったのかもしれない。

「第2言語は第1言語で話せる以上には絶対にならない」と先生の言葉

「第2言語は、第1言語で話せる以上には絶対にならない」と語学の先生が言っていた。
それはまさにその通りで、例えば外国人を前にして何か話したいのだけれど、何を話したら良いのかわからない、という状況を誰しも体験したことがあるかと思うけれど、その時は「外国人と話したい」という気持ちが先行していて、きっと「この人に何を尋ねたいか」ということに頭が回っていない。
私も留学中に、誰かを目の前に気まずい沈黙がしばし落ちることがあったけれど、その人と本当に何も話すことがなかったのだ。そして相手も同じことだった。

日本のテレビでは、「海外ではしばしよく日本ブームが起きている」「日本食ブーム」「日本のサブカルチャーが人気」だとか、そのような内容を目にすることが多いけれど、実際のところドイツ、スイス、イタリアでは、誰もが日本に興味津々なんてことは全くなかった。日本人だからと言って、無条件にモテるようなこともない。

「となりのトトロ」を知っているという人がいたので、「『スタジオジブリ』という映画会社で、宮崎駿という映画監督が作っている」旨を説明しようとして、全く通じなかったこともある。(ヨーロッパの)大体の人たちが、日本人・韓国人・中国人の見分けがつかないし、日本人は毎日寿司を食っていると思っている。

ヨーロッパから見ると、日本は遠い東のアジアの一国でしかない。そんな時に「Haruki Murakami」の文字を見て少し嬉しくなった。ヨーロッパの書店には彼のラックがあったし、彼は本当に世界でも人気の作家なのだ。

まだ見ぬ言葉に憧れを抱く。言葉を知ることは、世界を知ること

ドイツ語の授業を受けている時、「語彙が少ないね」と先生によく指摘されていた。その時は単純にドイツ語単語が少ないからだと思って、とにかく新しい形容詞や副詞を覚えようと努力していたのだけれど、最近になって、私は日本語の語彙も少ないのだと思うようになった。
だから文章がいつも単調で、心情や情景に関する表現が乏しい。それが最近の悩みだ。

読書はたくさんしてきたけれど、その本に書かれている言葉を自分の言葉として使いこなすのは難しい。それに今ある語彙力で日常生活において充分だし、難しい言葉を使うと会話に支障をきたす。それでもまだ見ぬ言葉に憧れを抱くのは、なぜだろうか。

他言語を学ぶことで、日本語への羨望もまた深くなった。言葉を知ることは、世界を知ること。私はまだ、色んな世界を見にいきたい。