会社に行けなくなったのは、10月12日のことだった。
上司に罵倒されたとか、無茶なノルマを課せられたとか、そういうものではない。何かが決定打になってしまったという訳ではなく、もう無理!を何度も何度も積み重ねて、徐々に萎れていってしまった。

それでも、とにかく頑張っていたのだ。泣いてもいいし、転んでもいいけれど、とにかく気持ちの面では走り切って、やれるだけやってやろうと思っていた。それができなくなった日が、10月12日だった。

生きていくという気持ちを維持することが、こんなにも難しいだなんて

こんなにも生きていくのが大変だとは思ってもいなかった。生きていくという気持ちを維持することが、こんなにも難しいだなんて。
私がやりたいことは何だろうとか、将来どうしようとか、そういった疑問や不安には何度もぶち当たったことはあるけれど、それは、「これからも生きていく」という前提での悩みだった。それが突然、そもそもどうやって存在すれば良いのかがわからなくなった。
私の存在自体がこの世の異物のようで、気持ち悪くなってしまった。私ってば、どうして生まれたいと思って、お母ちゃんの子宮に入ってしまったのだろうか。
私は何のために生まれ、どう生きるのか……アンパンマンのマーチがふと頭に浮かぶ。

何か楽しいことがあっても、次の瞬間には、この世から、今すぐに、静かに立ち去ってしまいたいと思う。生活を続けるということ、世の中で普通と呼ばれている物事は、ものすごくエネルギーがいることなのだ。

二十代も後半になると、人生での様々な一大イベントが目白押しである。SNSでは、結婚や出産、育児、キャリアアップ等、人生の節目を迎えている友人たちの姿が映っては消え、映っては、また消える。毎日、何なら一時間の間に、友人たちの人生が動いたことを知る。
素直に尊敬した。私は息をしているのも疲れた。疲れているのに涙は止まらない。矛盾している。なんてこった。

「大変やったね」。母の一言に、やっと、息が出来たような気がした

病院を受診し、正式に約3か月の休暇を取ることとなった私は、2年ぶりに実家へ帰省した。
最寄り駅で大きく息を吸い込むと、街より空気が美味しい気がして、じんわり視界がぼやけた。こういう風に帰省する予定じゃなかったんだけどな。

母は、炬燵から動こうとしない私を、外に連れ出した。お父さんは付き合ってくれんからなぁと、ウキウキしながら車を運転する。
色んな場所に行った。海鮮丼が有名な海沿いのお店、夏は蛍がきれいな大水車、世界遺産の石仏様、ちょっと山奥にある古民家カフェ等、連日のように連れまわされ、3週間ほど経ったころ、駐車場に止めた車の中で、私はやっと、ぽつりぽつりと話をすることが出来たのであった。

仕事のこと、生きていくのが嫌なこと、もうどうしたら良いのかわからないこと……母は、前を見ながら、淡々と聞いてくれた。
「大変やったね」と、一言だけ母は言って、車を発進させた。
話の途中、少しだけ私に顔を向けた母の目は赤かった。母に、他人に感情を認めてもらえて、やっと、私は息が出来たような気がした。

頼るというのは、苦しみを人に共有する自分を許すことだと思う。自分の胸の内を人に話すこと、それは弱い自分を受け入れてくれる人たちがいることを教えてくれる。自分でもわかっていない感情が、他人に聞いてもらうことでゆっくりと自分のものになっていくような感覚。
私にまず必要だったのは、自分でも目を背けてしまいたくなる感情を、一緒に泣いてくれる人だったのだ。

帰りを迎えてくれる人がいる事実は、心を少しだけ丈夫にしてくれる

12月末、会社と今後の話をするために、一度街に戻ることにした。駅で電車を待っていると、車で送ってくれた母が、フェンス越しに心配そうに見つめている姿が見えた。
大学進学で地元を離れたときも、過去に帰省したときも、ひょいと駅前に私を下ろしてあっさりバイバイしたくせに、なんでそんなに心配そうに私を見ているんだろうか。
私は、今、見守られている。思わず口元が緩んだ。

電車は定刻に発車した。無機質な乗り物は、私を乗せて街に向かう。
私はまだ、立ち直れないでいる。それでも、帰りを迎えてくれる人がいるという事実は、心を少しだけ丈夫にしてくれる。次へ進もうとする力をくれる。
電車の窓から、母の姿を見つめる。もう少しだけ、頑張ってみよう。私は、静かに深呼吸して、母に小さく手を振った。