「一人っ子」な上に「コミュ障」……。私は、「ひとり」の楽しみ方を嫌でも学ばなければならない環境で育ってきたと言っても過言ではない。
そうやって「ひとり」の環境に身を置きすぎたせいか、我ながらかなり「ひとり」を極めてこられたと思う。
ひとりカラオケに、ひとり回転寿司。単独行動は苦にならないどころか、気楽でいいとすら思う。
「ひとり」になり頭の中を整理する時間は、週末ライターに欠かせない
気付いたら、「ひとり」の時間は、私にとって絶対必要なものとなっていた。完全に「ひとり」というのは寂しいけれど、ごく少人数でも気の合う人とだけ、たまにコミュニケーションを取れていれば満足できる体質になっていた。
私の場合、週末ライターを自称しているが、つくづく「ひとり」の時間が多い人間でよかった、と思う。執筆のネタを考える時間も、実際に執筆する時間も、そこには自分が「ひとり」である必要があるからだ。
考えをまとめるために外界とのシャットアウトが必要なのもそうだが、文章を書くためには、自分自身との深い対話や内省が欠かせない。
もちろん、他人との関わりの中で学びを得ることもあるし、それなしには執筆の題材も必然的にごく限られたものになるだろう。でも、その他人とも常にいるだけでは、そのようなこともただの「日常のひとコマ」として通り過ぎてしまう。そこで、「ひとり」になって、頭の中を整理しながらPCのキーを打つことで初めて、他人との時間も意味のあるものになる。
「ひとり」の良さを知ると、誰かを求めたり依存する理由がなくなる
「ひとり」であることは、人間が最も自由である状態であることに他ならない。
私は、「ひとり」の時間も、厳選された一人と過ごす時間も、大勢で過ごす時間も経験して、やっぱりそう思う。
誰かと一緒にいるということは多かれ少なかれ、自分はその人に縛られていることを意味する。その「縛り」の中には、物理的な時間や空間の他に、遠慮も含まれる。
でも、私自身が相手なら、どうせ24時間365日一緒にいるのだし、飽きるまで何にでも付き合ってくれる。突然話を変えたり、数分間黙り込んでもいい。話の幅も、深刻な悩みから、昔のくだらない思い出の回想まで、どんと来いだ。
こうなると、自分から誰かを求めたり、誰かに依存する理由がなくなる。その結果、際限なくひとり時間が増えがちになってしまうことが玉に瑕ではある。
とは言え、私は「ひとり」の状態を最初からこのように捉えることができたわけではない。学生のときに多くの人が陥りがちな考えであるが、「ひとり」でいることは惨めなこと、恥ずかしいことと思っていた時期もあった。その頃は「ひとり」を実感するたびにひどく自己嫌悪に陥り、上辺だけでも人間関係を充実させようと躍起になっていた。
でも、社会人になって実感したのは、それなりの年齢になって常に誰かとつるんでいなければならない人、「ひとり」の良さを何もわかっていない人の方が逆に哀れではないか、ということだ。
意外な一面を発見し、観察できる「ひとり」をやめられない
恥ずかしいと思うのは、他人目線での「ひとり」の状態の自分についてあれこれ考えてしまうからだ。充実した「ひとり」の世界にどっぷりと浸かっている限り、他人目線から見てどうなんていう類の話は、どうでもよくなる。
だから強がりからではなく、今の私にとって「ひとり」の時間は本当に楽しいものだし、その楽しみ方を知っている人間になることができてよかったと思っている。
同じようなことを考えていても全く同じ文章を書くことがないように、「ひとり」の時間ですら、同じ時間は二度と訪れない。自分の意外な一面が発見できたり、年月とともに変化したりしなかったりする自分をじっくり観察できる「ひとり」は、面白くてやめられるはずがない。
今は「ひとり」を実感するたびに思う。「今の私からは、どんな文章が紡ぎ出せるだろう?」と。誰にも邪魔されたくない、ひとり時間の始まりだ。