私の職業はフリーライター。
文章を仕事にしていると、あたかも文章が得意な人のように思われるが、実際はそうでもない。いっときは自分には文章の才能があると思い込んでいたけれど、世の中にはライターでなくとも私レベルの文章、いやそれ以上の文章を書ける人がわんさかいると気づいた。
そう、例えば「かがみよかがみ」にエッセイを投稿している彼女たちとか。
悔しいが、私に特別な文才なんてないのだ。
こんな私でも、かつては自分の文章に自信を持っていた頃もあった。それは、皮肉にもライターになる前のことだった。
文章を仕事にして、以前よりも文章にシビアに向き合った結果、自信を喪失したというのもあるのだろう。でも、最大の原因はそれではない。
私の不幸度合いが大きく関係している。
文章に自信があった時は、不幸度と比例するように文章を書いていた
人生で一番不幸だったのはいつか?と問われたら、私は間違いなく社会人1年目の年だと答える。
人生で初めて本格的に自殺を試みたり、新卒で入った会社をパワハラで辞めたり、両親と生きていくことに絶望したり……それはそれは、いろんなことがあった。
結果的にうつ病になり、信頼していた人たちからの裏切りにも遭う。毎日が孤独で苦痛で、必死だった。
その不幸度と比例するように、私は毎日文章を書いていた。無印良品の小さなノートを常に持ち歩き、暇さえあれば溢れてくる感情を文章にしたためていた。
書いている時間だけは、心が安らいだ。どの精神安定剤よりも効力があったに違いない。生き延びるために書かずにはいられず、書くことで生きている意味を見いだせた。
誤解を恐れずに言うと、書くことに依存していた気がする。
たまにSNSに文章を投稿すると共感や賞賛のコメントをいただくこともあり、そんな自分が書く文章には自信があった。
今は不幸ではなくなった代わりに、文章が思うように書けない
あれから時間をかけて、今では平穏な自分を取り戻した。
心を思い悩ませる出来事は減り、死を考えることもほとんどなくなった。長年私を苦しめていた両親とは離れて暮らすようになり、仕事仲間にも恵まれ、プライベートの人間関係もうまくいくようになった。
その代わり、あの滾るような執筆熱は落ち着いた。仕事で書く文章は例外として、「書かずにはいられない」「書かないと生きていけない」と血眼になって言葉を紡ぐ頻度は激減。
原因は分かっている。
文章を書かなくても精神が安定するようになったからだ。
もちろん、今、悩みが全くないわけではない。結婚をどうするのか、仕事と夢の両立をどうするのか、親との関わり方をどうするか、など、悩みは尽きない。でも、その深刻さは不幸度が極めて高かったあの頃とは比べものにならない。
「人は幸せだと創作活動ができなくなる」と誰かが言っていたけれど、その言葉の意味が今ならよく分かる。
私でいう創作活動とは「書く」こと。不幸だったあの頃と比べると、パソコンの前で静止する時間は遥かに長くなり、キーボードを打つ手は頻繁に止まる。「うん、いい文章書けたじゃん」と思うことも少なくなった。同時に、文章への自信も徐々に減っていった。
いつからか、私は慢性的な執筆スランプに陥るようになる。毎日ノートにびっしりと文章をガリガリ書いていた昔の私には想像もできないだろう。
不幸だった過去の自分に頼らず、今この瞬間に流れる時間を書きたい
不幸でなければ良い文章が書けないだなんて、本当の意味で文才があるわけではない。少なくとも私の場合はそう。
今でもエッセイを書くときに、社会人1年目に負った傷を題材に選ぶことが多く、決まってドラマチックに書いてしまう。切り札のようにして当時のことを書くたびに「またかよ......」とうんざりしている。
それでも書いていたのは、不幸でないと文章が上手く書けないという観念があるからだ。
でも、せっかく不幸を脱出したのだから、不幸だった話をいつまでも書き続けている自分を解放させてあげたい。これからは、どんなにドラマチックではないことも、波乱万丈ではない些細な出来事も、ちゃんと文章にしていきたい。
今この瞬間も私の中で流れている時間を書き残せたら、それこそ本物の文章力がある証拠だ。
もう、不幸だった過去の自分に縋り付くのはやめにしよう。ちゃんと、今を見るんだ。