「おとなになったら、もーむすになりたい」
幼稚園の頃から、「大人になったら……」に続くのは、職業つまり仕事だ。この表現に違和感を覚えたのはごくごく最近だった。

身内の死、持病の悪化…幼いころの憧れが再び

幼稚園の頃から目立ちたがり屋で、当時大人気だったモーニング娘に憧れ、いつかはアイドルや女優になりたいと、心から思っていた。小学校低学年まではそのことを恥ずかしげもなく話していたし、モーニング娘や東宝シンデレラのオーディションにも応募した記憶がある。
ただそれも一時的なことだった。芸能界を目指すこと自体が「容姿や自分に自信がある」という自意識があると示してしまうことに気づいてから、芸能界への憧れをひた隠しにするようになった。

しかし、その憧れはあるきっかけで再び噴出することになる。
私が高校生の頃、祖母・伯母の連日の急逝やそのショックによる引きこもり、自身の脚の持病の悪化・新たに見つかった病気による計3回に及ぶ手術……高校性の私には耐え難い怒涛の困難に見舞われた。その時、
「こんな思いをした自分にこそ表現できることがあるのではないか」
「そのために生きてきたのではないか」
「夢を叶えることができたら、生きててよかったと思えるのではないか」
そんな思いが沸き上がり、再び芸能界を目指すことを支えにどうにか立ち直った。
松葉杖をつきながらの浪人生活を乗り切り、関東の大学に入学。上京する切符を手に入れた。

私が欲しかったものって?休職を機に考えた

大学生になり、ミュージカル女優を目指すことに。あくまでプロを目指すため、大学のサークルではなくミュージックスクールに通い、レッスンに励んだ。
しかしお察しの通り、現実は甘くはない。

大学2年生の後半、意識の高い学生が就職活動を始める頃、あるオーディションを受けた。途中まではとても感触が良かったが、自分に持病があることを話した途端に審査員の顔色が変わった。
「この世界では食べていけない」。私はその時、今思うと不自然なくらい冷静に悟った。

それから少しでも自分を“表現”できそうな仕事をと、広告代理店に就職、PRコンサルタントになった。
分からないことだらけの中、どうにか仕事を続け2年半が経ったころ、過労によるメンタルの不調で、休職せざるを得ない状況になった。ただでさえ忙しい業界、持病がある中で人一倍がんばった、がんばりすぎた結果だった。
休職直後はどうにも身体が動かず、とにかく寝ていることしかできなかった。少し動けるようになり自分で料理をしてご飯を食べたり、近所を散歩したりするようになって、あるとき唐突に気づいた。
「この穏やかな時間が、私のほしかったものなのではないか」と。

それまで憧れを支えに生きてきた。でも、その果てにあったのは、決して求めたものとは違った気がする。
カウンセリングの一環で、自分の理想通りになった所を想像してみるというワークがあった。
私が想像したのは憧れの舞台に出る直前の舞台袖。衣装をまとった私が鏡に映っている場面。その時私が感じた感情は「生きててよかった!」ではなく、「私は生きていていいんだ」というほっとした感情だった。
私はいつしかこの夢を叶えなければ、自分は生きていてはいけない存在だと思い込んでいたらしい。憧れは私にとって足かせで、憧れの仕事こそが私を私たらしめるものでもなかった。

幼いころの憧れの仕事をしていなくても、自分は自分だ

「仕事が人生そのものである」「好きなことを仕事にしよう」「今の自分とは全く別の自分になる」。そんなニュアンスを「大人になったら○○になりたい」という表現に感じとってしまうのは私だけだろうか。

今ならわかる。大好きで憧れの仕事を目指しても、実際に大人になった自分が求めたのは仕事とは関係のない、ゆっくりとした時間だった。
27歳の私は「もーむすになりたい」と言った5歳の自分とは全く別物ではない。人生はどこまでも地続きで、自分は自分だ。何者かになる必要もないのだと。

芸能界の仕事への憧れがなかったら、今私はここにはいないだろうし、この文章を書くこともなかったんじゃないかと正直思っている。
それでも、これからは強くて煌めく憧れよりも、じわぁっと感じる穏やかな気持ちを抱きしめて生きていきたい。
それは、仕事でありがとうと言われたり、自分のふと発した一言が採用されたりすること、家族と過ごす日々や、散歩に出かけふと見上げた青い空だったりする。仕事はプライベートと対立関係にあるものでもないし、遠い未来の話でもアイデンティティの話でもない。シンプルに人生の一部である時間の過ごし方のひとつにすぎないのだと思う。

今の私には、目の前の一瞬一瞬を大切に噛みしめることがいちばんむずかしくて、それでいて、自分が自分でいていいんだという、喉から手が出るほどほしかった感触を手にする近道なんじゃないかと思う。さらにその先に、素敵な道が続いているとなんとなく自然に感じられるのだ。
仕事も、その目の前の一歩、目の前の一瞬のひとつにちがいない。