中学時代は、一人になるのが怖くて“陽キャ”を装っていた

中学生の私にとって、一人になることほど怖いものは無かった。なぜならそれは独立でも充実でもなく、孤立であることを意味していたからである。
当時、学校は自分が身を置く最大の社会だった。クラスには何十人もの生徒がいるのに一人だけの世界に籠るわけにもいかず、なにより友達がいないという状況は学校内外の関係に影響した。
そしてそんな空気を敏感に感じていた私は“陽キャ”の中にいるけど、場を仕切るのではなく笑っている女子というポジションを死守していた。自分がどう思うかよりも他人がどう思うかを読み、その文脈を乱さないように、でも反応が薄すぎないよう努めた。
でも自分はそんなヒエラルキーを念頭に生活していたのにもかかわらず、人をジャッジすることは苦手というかできなかった。悪口とか「クラスメイトのどちらがタイプか」といった質問もよく分からなかったし、今思えば当時から誰かや何かをネガティブに比較して共感しあうことが苦手だったのかもしれない。

高校は国際科で多様性に富む環境、段々自分を軸に考えられるように

そんな私は高校に入って面食らった。
なぜならそこではみんなが自分の意見を主張し合い(チャイムが鳴るとバチバチに言い合ってた子たちが一緒に食堂に行く)、そもそも「価値観は違って普通」という前提があったためである。私が在籍していたコースが国際科であり、生徒のバックグラウンドが多様性に富んでいたということも一つの要因だと思う。
でも当時「自分の意見は他人の意見を聞いてから言うもの」だと思っていた自分は、「まずあなたはどう思う?」という質問に困惑してしまい、本当にどういう風に考えればよいのか分からなかった。
しかしその後学校生活に慣れていくうちに、段々と自分を軸に考えていくことが出来るようになった。そして、そうすると一人で過ごす時間が自然と増えていった。

一人で過ごす時間は、自由で平和で、自分を再認識できる時間だと知った

私は高校時代ほぼ帰宅部であり、他人と関わる場所・数という点において、中学時と逆方向に歩いた。初めて自分の時間ができるとまず本を読むようになり、一人で好きな場所に出かけるようになった。そして一人で考えることが増えると「自分はこんなものが好きなのか」と知ることが出来た。
また社会と距離をとることで、「こんな考え方もあるのか」と異なる価値観もポジティブに捉えることが出来た。好きな音楽、絵、言葉を通して自分の中に居場所を増やしていくことは、他人の調子を伺う努力をするよりもずっと安定的なものだった。
そして何より平和だった。
だって一人だと、「やっぱり今日はカレーの気分じゃないかも、その前にこの雑貨屋見たいな、そしたらやっぱりカレー食べたくなった」とか、「今日一番行きたかった場所に今から行くつもりだったけど、思ったより疲れたから明日のためにもう家に帰ろう」という決断を、誰の許可も取らず行うことができるのだ。
勿論、誰かといても自分優先100%の会話をすることはできるかもしれないが、仲良くしたい人とはお互い負担を軽減する存在でいたいし、我が儘を貫いてしまった自分に対してもストレスを感じる。

誰かとの新しい経験を楽しむ為に、一人の時間でパワーチャージする

でも私は誰かと過ごす時間も同様に好きだ。
なぜなら誰かと過ごす時間は、自分のパワーを奪うと同時に与えてくれるから。自分とは異なる価値観やペースを持っている人と共有する経験は、自分にとって非日常なイベントという感覚だ。凄く楽しいし、刺激的だし、新しい世界を知った気になる。

でもどこかに一人で過ごす時間が無いと、その時は楽しくてタフになれても、家に帰るとどっと疲れ、「見ないで(見られてないのに)、もう世界から引っ込んでいたい」と思う。
でもそう分かっていても、私はよくワクワクを優先し新たな場所に飛び込んでしまう。そして自分の許容範囲をミスる。だからこそ、そんな自分を嫌いにならないために、きちんと自分は回復できるのだということを学ぶために、私には休憩が必要だ。

好きな言葉に「もし疲れたのなら、やめるのではなく休むことを学ぼう」というものがある。
自分にとって「一人の時間=エネルギーチャージの時間」であり、「新しい経験を楽しいと思うための余裕を貯める時間」である。そしてたとえ何もしていなくとも、自分が満足しているのであればそれは超生産的な時間だと思う。
一人で過ごす”ボッチ”の時間は、私にとって”リア充”そのものだ。