「おひとりさまを卒業」できなければ女性として未熟なのだろうか

20代後半。結婚や妊娠、出産が増えて「おひとり様」と「おひとり様じゃない人」が別れていくのを実感する年齢。そして、「モテる」が褒め言葉じゃなくなる年齢でもある。
10代で読んでいた雑誌には「モテコーデ」「モテるメイクのコツ」なんて言葉が表紙を飾っていたが、アラサー雑誌には決して使われない。あれだけこだわっていたモテるためのノウハウは、20代前半までに身につけるべきもので、それ以降はイタイだけのマイナス要素になってしまうということだろうか。
確かに「モテるママ」は危なっかしい響きがある。女は「20代前半」と「ママ」しか、メディア媒体は認めない、ということなのかもしれない。

今年29歳になる私は、まさしく雑誌が取り上げるに値しない、アラサーのおひとり様である。
高校時代の仲良し4人組のうち、おひとり様は私だけで、最近、話の流れで私以外の3人のLINEグループが出来ていることを知った。大学以降に出来た友人も、ここ数年の間は毎月誰かがSNSでお祝い事の投稿をしている。

正直、誰かがそういった報告をする度に、心が沈んでいく感覚を覚えてしまう。それは、彼女たちが憎いからではない。婚約や妊娠が「おひとり様『卒業』」を謳っていると感じるからだ。「卒業」という言葉を使うことに悪意があるのは、それがしなければならないことだから。「卒業」出来なければ中途半端と見なされ、女性として未熟だとレッテルを貼られてしまう。初めてこの得も言われぬ感覚を覚えたのは、20代も後半に差し掛かる時だった。

違和感を抱いた「モテ卒業宣言」。出産がゴールの、女性特有のレース

とある友人が婚約の報告をインスタグラムに投稿し、それに対するコメントが書き込まれていた。
「ついにみんなのアイドルだったA子も結婚なのね……私もファンのひとりだったのに(笑)おめでとう!」
「ありがとう!今までもモテてないけど、これからは彼のために生きます!」
一見何の変哲もないリプライだが、このモテ卒業宣言に違和感を感じた。言うなれば生理が近づいてくると感じる、あの気分が下がる、心が沈んでいく感覚。

そう、「女性」を突きつけられた感覚。女性として生まれた以上、生理からも、モテ卒業宣言からも逃れられないことを知る絶望感。
女性は、社会や文化が創ったレール上を歩くことを要求される。この卒業宣言まではモテるための努力を強いられ、雑誌を読み漁っては自分自身をいずれ迎える卒業のために着飾っていく。晴れて卒業した後にはママになるための努力をし、ママになった後は完全な女性と自負して生きていける。
何ともシンプルで残酷な世界だ。だから女子高生の頃からJKブランドという名の年齢に執着し、モテ卒業を少しでも早めるための恋愛経験や自分磨きに精を出す。雑誌をはじめとするメディアも早めるサポートをする。
いわばレースなのだ。ゴールは出産。そこまで続く、女性特有の競争である。

結婚や出産はゴールじゃない。レースを無視して、私らしく生きていく

だが忘れてはいけないのは、誰もその競争にエントリーした覚えはないということ。なのに性別が女性というだけで勝手にエントリーさせられ、常に好奇の目にさらされる。誰が1番なのか、出戻りで再度レースの場に戻ってくることはないか……。
本当はおかしなことなのに、人間という集団がそれを現実に変えてしまうのだ。そもそも集団にいるから孤独という概念が生まれる訳であって、集団と心の距離をおけるのであれば、孤独なんて感情すら生まれない。そんなことは、共同体社会で生きている上では不可能だが。

だから私はこのレースから除名した「つもり」で生きることにした。
周囲の視線を変えることはできないが、私自身の見方は変えることができる。正直、心が折れそうな時はあるが、可能な限りレースを彷彿させる集団とは距離を置いて生きることにしている。
このレースが悪いとは言わない。でも違和感を感じたまま何となく生きている人は、たくさんいるはずなのだ。

先日ランチを一緒にした既婚で子どももいる友人の力強い言葉に勇気をもらった。
「何だかんだ言って、いつまでもモテていたいんだけどね」
まさしくこの言葉に尽きる。モテ卒業なんて本当は存在しないのだ。結婚や出産は個人的に迎えるライフイベントに過ぎない。
いつか「モテるママ」を私自身も違和感なく思える日がくるよう、今日もレースを無視して生きていきたい。