“ひとり”で過ごす場所によって、感情は左右される。
私は、この場所で感じる“ひとり”の感覚を、とても気に入っている。
高層マンションと一軒家、上にモノレールが走る都会の中を流れている川。河川敷がランニングコースとして整備された川。
山から流れ、海へ繋がる高低差のあるこの川は、ランニングコースとしてもとても有能だ。
それに綺麗に整備されて道幅も広く、ペットの散歩やピクニック、川遊びをする人でいつも溢れている。
この場に訪れるようになってもうすぐ4年。
主にランニング目的として、時に友達と散歩がてら歩くこともあった。
走り終わればサッと帰る場所だったここは、いつからか私にとって心を整える場所、自分と向き合える場所になっている。
それは、この川で見る風景や景色から、私は今まで見えていなかった季節や世界を見たからだ。
コロナ禍でモヤモヤしながら続けたランニング。そこで私が得た気づき
コロナ禍で会社と家の往復だけになり、めいっぱいおしゃれをして大好きな人達と会う、お気に入りのカフェに行く、なんていう当たり前の生活がゼロに等しくなった。
そうすると私は、自分の中にモヤモヤとした感情が溜まるようになった。
会社でのストレスや代わり映えのない生活は感情を下方へ向かわせる。家の中でひとりでいると言いようのない孤独に押しつぶされそうになる。
それでも続けていた週末のランニング。でも、どうもやる気がなくて歩いていると、周りにいる人達がよく見えた。
犬の散歩をするおじいちゃんおばあちゃんや、ご飯を食べている家族、大きな楽器を弾く男の子、少年野球チーム、段差に座って読書する女の子、ランニング仲間であろう男性数人。
会社と家の往復の世界ではおよそ出会うことのない人たちがいる。それを認識した時、自分の住む社会はとても小さく、世界はもっと広いのだと感じた。
なんとなく、心が軽くなったような気がした。
それからは、ただのランニング目的でしかなかったこの場所で、河川敷に咲く桜や葉をつけた木々、鳥たちに私は微笑めるようになった。
夏はモノレールの上に見える真っ青な空と入道雲。秋はランニングコースを埋め尽くす散った葉っぱの絨毯。
冬は、ランニングコースに生える木に止まるカワセミと川の中に佇むサギ。春は、1年中川に住んでいるカルガモが子ガモを産むのを、ここに訪れる人全員と見守っている。
カルガモが子ガモを産む春から初夏は、この場所で過ごす一番好きな季節だ。
木々が瑞々しい葉をつけて、カルガモが列をなして流れの緩やかな場所を泳ぐ姿を見ると、新しい命の芽吹きに幸福感でいっぱいになる。
世界の広さを感じる場所で過ごすひとりの時間に、本当の私に気づく
この場所で得られるエネルギーを身に染みて感じ、モヤモヤすると走りに行こう!ともっと頻繁に来るようになった。
汗をかいて体内から老廃物が発散されると同時に、心を覆っていたモヤモヤが晴れて感情が輪郭を帯びていく感覚がある。
それは、自分の心が見えるようで、私自身の感情を大事にできるようになった。
自分以外が発する音が聞こえるこの場所で感じる孤独は、どこか心地よかった。
私自身も、この場所にいる人から見れば社会の外にいる他人でしかなく、私にも社会があるように、他人にも社会があって、世界の広さを感じる。
「ああ、私って小さい」と、漫画みたいに空を見上げて清々しい気持ちになる。
川の流れる音、他人の声、木々を揺らす風、季節を知らせる鳥、気温を伝える太陽と空、日常で刺々しくなった心が柔らかくなっていく。
私はこの場所にひとりで訪れるし、周りの誰とも親しくならない。全員他人。
これまでもこの先もこの場所でずっとひとりだけど、ここでは寂しくもつらくもない。
この場所で過ごすひとりの時間は、孤独をリアルにする。でもこの孤独は、本当の私に気づける時間。
この広い世界で私の心を抱きしめてやれるのは私なのだと感じるのだ。
だから、私は自然に囲まれて、他人に囲まれて過ごせるこの川で過ごすひとりの時間が大好きだ。