「あえてひとりが『好き』だと思ったことはない。ただし、ひとりでも『楽しい』」
みんなそうだと思っていたけれども、実はそうではないみたい。
私は最近その事実に気づいた。
私は、誰も知り合いがいないSNSを一時期使っていた。様々な人の観点が知りたくて作ったアカウントだったが、その中で「誘って断られたらどうしよう」と男女ともに悩んでいる人が世の中には多くいることを知った。

ひとりで楽しいと感じられる孤独への耐性は、私の強みかもしれない

私は、実を言うと人を誘うことに恐怖心を感じたことが一度もないので驚いた。「誘って断られても、どうしても行きたければひとりで行くからいいや」というくらいのスタンスであるからかもしれない。それくらい私には単独行動は自然なものだった。
基本どこにでもひとりで行ける。そういう過程を経て私は、「ひとりで楽しいと感じられる孤独への耐性は、私の強みなのかもしれない」と次第に思うようになった。

私は頻繁にひとりで「お散歩」に出かける。その道中では、道端のお花がきれいだなと思って立ち止まって写真を撮ることもあれば、たまたま開催していた個人経営の画廊に立ち寄ることもある。歩いていると、素敵なお花屋さんやカフェを見つけたりと、良いことがたくさんある。
気ままに動いているからか自分の本能に近い気がして、「お散歩」はよい意味で自身の休日のデトックスになっている。
ただし、この行為は何か目的があるわけではないので、「余白の時間」だと自分では捉えている。どうしてもしなければならないわけでもないけれども、ないと窮屈なきもちがするような時間だ。人にどう思われるのかは必要なく、ただ自分自身の感性が呼応するものと純粋にひたむきに向き合う時間があることは、安定した安心感に繋がるのかもしれない。

そういう意味では、無心で掃除をすることや花を生けること、自宅で読書をすること。全てが「ひとり」の楽しみ方かもしれないと思うようになった。

「人と共有した方がよいか、ひとりの方がよいか」と無意識に区別する

私は、楽しむ観点を「人と共有した方がよいのか、自分ひとりの方がよいのか」と無意識に区別してきたように思う。
例えば、飲食。食事を摂ったりお酒を飲むことと、語らうことは並行でできるので、人と行いたいと思う。また、映画も好みが合うのであれば、上映中は黙っているのが当たり前なので余計なことを考えずに済み、一緒に行きたい。上映後に感想を語らって飲むお酒もおいしく感じるものだ。旅行やテーマパークも人と行くことで生まれる感動の共有があるので一緒に行きたいと思う。何かに感動したときに隣に共有する人がいないのは寂しいと思ってしまうような気がする。

逆に、人といるときに道端の草花の写真を撮るわけにはいかないし、絵画展等も大型展示であれば館内ではぐれる可能性があり、鑑賞速度に気を遣ってしまうので、人と一緒に行く場所としてはお互いに不向きかもしれないと思う。
人と一緒に行くことで楽しい場所もたくさんあるし、私は基本人と会うことがとても好きだ。だけれども、同じくらい自分ひとりで過ごす時間も大切だと思っている。

自分をメンテナンス・デトックスする「おひとり様」は余白の時間

それぞれの時間があるからこそ、私は私を保っていられるし、どちらの時間も好きだと言えるのだと思う。花粉症は一定の許容量を超えると発症すると言われるように「ひとりの時間」も「人と過ごす時間」も偏りがあれば、ストレスを感じるし、嫌なきもちを抱いてしまうように思う。
何事もバランス。良くも悪くもマイペースな私の性格のせいかもしれないが、私はどちらの良さも知っているからこそどちらの時間も大切に思う。

自身と向き合い、自身をメンテナンス・デトックスするような意味合いで、私にとっては「おひとり様時間」も大事な時間のひとつだ。