耳をふさぎたくなるような会話をする彼らは、来年度から教員になる

「〇年〇組のA香ちゃん、胸大きいよな」
「B先生はヒステリックババアだから結婚できないんだよ」
「〇年〇組のC美ちゃんとヤリてー!」
「D先生デブったよな笑」
「(同席している友人に対して)お前の胸はまな板だから色気ないんだよ!」
「E先生家族いるのにデリヘル行ったんだってさ、それでコロナかかったんだよ笑」

居酒屋の席。忌々しい下品な会話の内容。美味しいはずのお酒が不味くなる。私は耳をふさぎながらこっそり居酒屋の外に出た。どうしても聞いていられなかったからである。
そして、何よりもその気持ち悪い会話の嫌悪感を引き立たせる事実があった。
「彼らは来年度から小中高で教員として働く」

私は大学院で教育学を学んでいる。そのためか、必然的に教員志望の学生たちと交流が多くなる。教員志望の学生の中には「困っている子どもを助けたい」「担当教科の面白さを伝えたい」など様々な目的を持った学生がいる。日々子どもたちのことを考えて邁進している真面目で優秀な学生ももちろんいる。 対して、中には目的もなく明らかに不適正な言動や行動をする学生もいる。

諦めて良い夢なのか?と思っても、私には「こんなこと」が重要だった

上記の下品な会話の彼らは、実は教育実習では高い評価をとっていた。実習現場の教員からの評価も申し分ない。しかし、彼らは授業以外の子どもたちとのコミュニケーションでは一部の子をターゲットにして馬鹿にして笑いを取り、クラスの結束を強めていた。でも先生方は気づかない。
おそらく彼らは要領が良いからだろうか。先生方の中には彼らを恐れて言いなりになっていた人もいたが。彼らの中には、教員採用試験をパスして非常勤講師として働いている人もいる。しかし、その裏側はセクハラやパワハラまみれという実態である。私は教育実習や教員採用試験は不適正な人を通す節穴同然の授業や試験ではないかと感じた。

私は居酒屋から外に出て少しずつ腹立たしい気分を沈めた。せっかくの一人飲みが台無しになったこと、個室居酒屋ではないため、彼らの大声の会話がきっと周りの家族連れのお客さんにも聞こえていただろうこと。徐々に怒りと残念さが混ざった気持ちになった。そもそもどうしてこういう会話を嬉々としてできるのか。
熱気がこもった居酒屋から外の冷たい空気に触れ、落ち着いてきた時、「私はどうして教員になりたいのか」「他害行為が耐えない人達と共にやっていけるのか」様々なことを考えた。
私が教員になりたかった理由は……。

あれ、どうしよう、頭が真っ白になってしまった。ただ、パワハラ・セクハラ・犯罪者予備軍と距離を置きたい気持ちでいっぱいになった。教員になりたい思いは、生理的嫌悪感から一瞬で消えてしまった。
夢をこんなことで諦めればいいのか、いや違うその「こんなこと」が私にとっては重要だったのだ。可愛がっている子どもやお世話になっている先生方がこんな形で馬鹿にされるのを間近で見たくない。

教員採用試験の適性検査は機能している?可能であれば変えたい世界

潔癖と言われればそうなのかもしれない。しかし、子どもたちを守ったりお手本になったりするような立場の教員が公共の場でこのような発言をして良いのだろうか。また、子どもたちは鋭い。如何わしい視線を向けたらきっと逃げて怖がる。悪口を言われた先生方もきっと不遜な態度は見抜くだろう。公共の場で品のない発言をすること自体、人としてどうかと思っている。

でも「どんなに悪い行いをしていても取り繕えば簡単に通過してしまう教員採用試験」であるため、そう簡単にはバレないのだろう。私は教員になる事をやめて、別の進路を模索することに決めた。少なくともパワハラやセクハラが起こりにくくて、人格的にも倫理観のある人が多いホワイトな環境が望ましい、と思い模索している。皮肉にも就職活動や進路を決めていく上でのモチベーションになり奮闘している。

もし将来、子どもが出来たとしたら少なくとも彼らや彼らのような平気で他者を貶める教員には預けたくない。きっと多くの親はそう思っているだろう。しかし、ニュースや新聞を見ていると世の中には同僚をいじめたり、子どもたちを苦しめたりする教員が一定数いる。どうにかならないのだろうか。少なくとも、教員採用試験の適性検査はきちんと機能しているのか?過去、どんなに酷い行為をしていたとしても結局不問であるのか?
もし、可能であれば変えていきたい。