ラーメンを食べていると、心に穴が空いた感覚に陥ることがある
ラーメン。私の好きな料理ランキングで五本指には入るくらいのお気に入りの料理だ。
味もジャンルも幅広いバリエーションがあり、値段も1000円以内と良心的なものが多い。忙しくても短時間で栄養がとれる。味の観点からも合理的な理由からも、金欠で食べ盛りの学生にうってつけの料理だ。
私も何杯も助けられてきた。美味しいラーメンを食べて、明日も頑張ろうと元気が出た経験は数え切れないほどある。
しかし、ラーメンを食べていると同時に、心の中にどこかぽっかりと穴が空いた感覚に陥ることがある。穴の中に冷たい風が吹き込むこともある。
温かいはずなのにどうしてだろうか。美味しいはずなのにどうしてだろうか。満腹で心身が満たされている状態なのにどうしてだろうか。
私がラーメンを好きになったきっかけは、大学受験後のお疲れ様会である。
お疲れ様会といっても、ラーメン屋さんで共にラーメンを食べておしゃべりする、素朴なものであった。そして、そのお疲れ様会は、高校時代を3年間共にすごした気心知れた友人数人と私だけというこじんまりとした会である。人見知りであった私にとって居心地が良かった。
友達とラーメンを食べたほんの1時間は、心の底から私を温めてくれた
時は真冬。冷たい風が吹く中、友人とラーメン屋さんまで歩く。手や顔を真っ赤にしながらたどり着く。
ここは、友人行きつけのラーメン屋さん。友人は慣れた口調でどんどんラーメンを頼んでいく。お待ちかねのラーメン登場。温かい器に手を添えて冷えきった手を温める。湯気が顔にかかる。
一口目のラーメンをすする。私は「このラーメン美味しいね」と話しかける。友人たちは「やろ~?」と得意げに微笑む。
一緒にラーメンを頬張り、たわいもない話をする。会話の内容はほとんど覚えていない。友達の笑い声や笑顔は覚えている。
ラーメンはとても美味しかった。体の底から温まる感覚がした。でもそれ以上に、私にとって友達と食べるラーメンは心の底から自分を温めてくれたのだ。
帰りの電車で友達とラーメンを食べた余韻が残り、泣きそうになった。
数ヶ月したら、みんな日本各地に散らばってしまう。また、皆で集まれるかな。幸福感の後にほんの少し寂しさもあった。このほんの1時間の出来事は、後々私を少し困らせてしまうことになる。
大学、そして大学院に進学した後も、私は日本各地の様々なラーメンを食べてきた。思い切って二郎系ラーメンにチャレンジしたり、韓国の辛い袋麺を試行錯誤して食べたり。
家系ラーメンを初めて知った時は、自分自身で味をカスタマイズできることに感動した。ミシュランが惚れ込んだラーメン屋さんは味も造形も美しく華があった。
どんなに美味しいラーメンを食べても、あの日を思い出してしまう
確かにラーメンは美味しかった。美味しかったのだけども、どうも心に穴が空いたようだった。それは替え玉でも調味料でも補えなかった。味や量のような物理的なものではなく、きっと心理的なものだろう。
大好きなラーメン屋さん。行列に並ぶ。はじめの1口をすすった。美味しかった。ぜひこの美味しさを伝えたいと思った。でもその美味しさを共有できるあの友人たちはいない。
私はほんの少し寂しい気持ちを抱えてラーメンをすする。
「友達にもこの味、美味しかったと伝えたいな……」
私はかけがえの無い友達とラーメンを食べる楽しさを知ってしまった。
私は今後、どんなに美味しいラーメンを食べたとしても、やはり彼女たちの顔を思い出してほんの少しだけ寂しい思いをするだろう。仲の良い友人と共に食べるラーメンは美味しい。それは自覚しても決して変えられない事実だ。
現在も、友人はみんな全国各地に散らばって生活している。SNSで近況はわかるものの、やはり寂しい。皆、向こうで元気に過ごしているのだろうか。
コロナ禍が明けたら、私は友人をみんな集めて必ず一緒にラーメンを食べることに決めた。今のうちにお店探しをしておこう。ラーメンは具材やスープによって好き嫌いがわかれる。友人一人一人の好みを思い出して、今日もベストのラーメン屋を探しに行く。
自己満足かもしれないが、友達の喜ぶ顔を想像したら寂しさも薄れてきた。