大人なんだから泣いちゃいけない、と思っていました。うまく感情をコントロールすること、辛い時や悲しいときも平静を保つこと、人前で涙を流さないことはできて当たり前だと思っていたから。
本当は動くのもつらいのに、無理して元気に振る舞う日々が続いた
私は20歳のとき、精神面のバランスを大きく崩してしまい、食事や睡眠がままならない時期がありました。
それまでエネルギッシュに行動できるタイプだっただけに、周囲の人に助けを求めることや自分の弱さを表現することがとても苦手で、本当は動くのもつらいのに無理して元気に振る舞う日々が何ヶ月も続きました。
苦しかった、辛かったです、本当は。
元気でいなくちゃと、栄養ドリンクを一度に5本飲んで外出したこともあります。
当時住んでいた場所のほど近くに、地域のボランティアで知り合った同年齢の友人が住んでいました。私が弱っていた時期、唯一定期的に顔を合わせていた友人です。
あるとき一緒に食事に行こうという話になり、やっぱり私はなんとか気合を入れて家を出ました。
味もよくわからないまま、賑やかな店内に目がまわりそうになる体のまま、食事中も「元気に振る舞わなくちゃ」で埋め尽くされる私の頭のなか。元気そうに見えていたはずです。
遅れないように食べ物を胃に押し込みましたし、たくさんおしゃべりもしました。けれど、友人は私を見て、まだデザートのプリンも届いていないのに「外出よう、近くの広い公園に静かでお気に入りの場所があるんだ」と。
正直、いやな気分にさせてしまったかなと心配でたまりませんでした。
友人は気づいていた。泣いていいんだと、すとんと言葉が胸に落ちた
公園に着いて、キッチンカーで売っていたあたたかいココアと、静かな緑がどれだけ私を落ち着かせてくれたことか。
このあいだの映画さ、と話そうとするのを遮って、「ねえ、無理しないでいいんだよ、なにがあったのとは聞かないけど、元気なふりしなくていいよ。ちゃんと泣かないと、休まないと、だめになるよ、私は〇〇(私の名前)がいつも元気だから仲良くしたいって思ってるわけじゃないし、だめなときはだめでいいよ」と、友人は半分怒ったように言っていた気がします。
気がします、というのは、あまりにその言葉に驚いて、嬉しくて、記憶がぼんやりしているから。本当に、本当に、生まれてから一度も触れたことのないような深くて優しい言葉でした。
あ、泣いていいんだ、休んでいいんだ、と、すとんと胸に言葉が落ちていって。
友人は前から私が無理して元気そうに振る舞っていることに気づいていたそうです。元気なように見せるのは、ヘルプを出すことよりずっとつらくて大変だから、泣いてもいいしダメダメな姿を見せてもいいと伝えたいと思って、会う約束をしたんだと言っていました。
友人も過去に落ち込んで弱っていたとき、周りから「気丈に振る舞わなくていい、落ち込む時はしっかり落ち込んでいい」と言われてすごく気が楽になったから、と。
やさしさがつながって、生かされて、届けられて、私はそのあとゆっくりと休養することを少しずつ自分に許していけるようになりました。
人もボールのように、上がっては下がってを繰り返して生きていく
家から一歩外に出れば、みんなパワフルに頑張って働いていたり、学んでいたり、すました顔で生活しているように思います。けれど、人間はいつも元気とは限らない。ときどきは休んでいいし、泣いていい。
高く跳ね上がるボールは、きちんと下まで落ちて沈むからまた上に上がれる、人もボールのように上がっては下がってを繰り返して生きていくしかないのかもしれません。
友人の穏やかであたたかな愛にふれて、またゆっくり前に進んでいこうと思えました。
私も人の気持ちにやさしく寄り添って、大切な家族、恋人、友人、周りで支えてくれる人すべてにあたたかな愛を伝えていけるような人でありたいです。
大人だって、泣いていい。