ども、先日「かがみよかがみ」のペンネーム名義でアカウントをつくって、Twitterというパンドラの玉手箱を久方ぶりに開けた浦島太郎こと、いくらです。
数年ぶりに、コンスタントに他人の呟きを見るってのは、当たり前にかなりおもろいんですけど……いやはや。Twitterというものは、興味深いツールですな……(年齢詐称疑惑)。
私が興味深いと思うのは、140文字という制約の中で綴られた呟きの「内容」じゃなくって、「言葉選び」の方。そして抱くのは、「みんな、結構自由に呟いてんだな」という感想。そして洩れるのは、「炎上、怖くないの?」という、小心者の声……。
数年前のTwitter界隈って、ここまで血生臭くなかった様な。やっぱりこれも、コロナ禍が関係しているの……??
「バズる」と「炎上する」って、全然違うものだよね…?
どちゃくそ基本的な、素人の疑問で恐縮なんだけど、「バズる」と「炎上する」って、全然違うものだよね…?両方いいねやコメントがたくさん付いて、拡散されるという点においては同じなんだろうけど。 私が主に異なると思うのは、コメント欄の治安だ。
バズった投稿についたコメントを見て私が思うのは、「色んな感想が飛び交ってんな~」ということ。ただ、投稿主の頭上で「感想」が「飛び交って」いるこの状況は、ノーリスクかといえばそういう訳でもなく。
「多様性」がプッシュされる令和において、人の価値観は様々で。だから、思わぬタイミングで、思わぬ方向から感想が飛んできて、それがデッドボールとなる可能性はあります。
とはいえ基本的には、みんな理性や知性の元にボールの投げ合いに参加していて。これもスポーツの範囲内、コミュニケーションの一環だよなという感じ。
それに対して、炎上した投稿のコメントを見て私が思うのは、「攻撃的な感想が飛び交っていて、怖い」ということ。そこで「飛び交っている」のはボールではなく、もはや実弾。
血しぶきを見ているだけでも精神ダメージを受けるし、たとえ中心地から離れたところにいたって、流れ弾に当たったらケガじゃすまない。最悪のパターンもあり得るし、中心地にいる投稿主は尚更危険……!!
同じ素材でも「言葉選び」によってはどっちに転ぶ可能性もある
……私の中では「バズる」と「炎上する」の間にはこれくらいの隔たりがあります。と同時に、両者は紙一重でもあって。同じ素材でも「言葉選び」によっては、どっちに転ぶ可能性もあるんじゃないかなぁと思っていて。
私は、引き金を引く様な、あるいは法螺貝を吹く様な投稿を、したくない。例え石を投げ合う程度の炎上であっても、自分がキッカケにはなりたくない。……だって怖いもん。
だけど、数億年ぶりにTwitterを覗いたらね。みんな結構、バンバンぶちかましてンのよ…ブォーブォー法螺貝鳴らしてンのよ……(戦慄)。これは無自覚?それともあえてなの?
うわぁ……そこのお姉さん。そんなに立派なガトリングガンを抱えて、いったい何処に行くの……??
私がTwitterアカウントを作った初日のこと。私は早速「炎上している投稿」と「バズっている投稿」を見かけたのですが、それらはなんだか似ていた。
1つ目は「私はAが好き。でもBを選ぶ人もいて、それは良くないと思う。Cを選ぶ人も居るらしい、信じられない」という呟き。
この投稿は、あたりまえの様にB派C派の反感を買って、炎上していた。その上A派の人からも「人と場合によるよね……」と言われたりもしていた。
そしてその後見つけた2つ目の投稿は、ちょっと違う。「私はAが好き」というシンプルな呟き。
ただ、それに対してもやっぱりB派C派のコメントがついていて。しかし投稿主はそのコメントに対して、「BもCも正しいですよね、人と場合によりますよね」と返していて、その返しは見た人により響き、よりバズっていた。
ストレス発散か、交流の場か。Twitterをどう使うかの意識の差
前者は確かに、A派から深い共感を得られるかもしれない。でも、投稿主はB派C派の存在を知りながら、そっちに向かって法螺貝を吹いている。
後者は、初めからB派C派の存在を知っていたとは限らない。それでも投稿主は後から飛んできたボールをしっかりと受け止めて、優しく返球している。
そもそも、Twitterをストレス発散の場としているか、それともコミュニケーションの場としているか、そんな意識の差があるんだろうなと、2つの投稿を見比べて考える私。また、結果的により多くの人に拡散されて、いいねがたくさん付いたのは、後者の投稿だった。……もちろんそれは、ただの数字なんだけれど。
全人類が送る殺伐とした毎日。現実世界ですら緊急事態なのだから、せめてネットの中位はのほほんと過ごせればいいのにね……。
とはいえ「ここをストレスの捌け口にするしかないんだよ」という悲痛な叫び声も、やっぱり聞こえてくる。もうみんな、辛いよね。コロナ禍、やっぱり関係してそうだ。
会話の強めなボールにユーモアで返し、時には避けるスキルが必要かも
あと、ここまできて思ったけれど、現代人ってディベート苦手ですよね。会話のドッヂボール、私もそこまで得意ではない。 これからの時代を生きていく上では、あらぬ方向から飛んできた強めのボールも、受け止めるスキルがあった方がいいのかもしれない。
小学校の先生達の負担を増やすようで申し訳ないけれど、子どもの頃からディベートの訓練をする事が、より「多様性」に溢れた未来の、SNSの治安を良くすると思う。そこから優秀な政治家も生まれるかもしれない。
おそらくこれは道徳ではなく、国語の中のスキル。現代文読解、やっぱ軽視しちゃだめだよ。物語文も読まなくちゃ。随筆(エッセイ)にも触れなくちゃ……!
そして未来の若者達が、言葉巧みな精神的マッチョになれば、いつか銃弾も跳ね返せるかも……??いやいやそれは、無理だよね、だって、人間だもの。
星野源も歌っていたけど、やっぱりみんな、同じ様に孤独で、別々の生き物。だからこそせめて、飛んできたボールはしっかりと受け止めて、ユーモアで投げ返そう。時には避けてもいい。でも、言葉を選ぼう。
そんなSNSを、私は見たいし、そんな輪を広げたい。生後数日のアカウントを抱えた母親の私は、そう願っております。