●ヒコロヒーの妄想小説:本日のお題「迎合する」

セクハラ発言にも「私は大丈夫です」と「わかってる」女子になる

「澤部さん、ちょっと痩せた?」

就業中、デスクでパソコンに向かって仕事をしている最中にふとそう話しかけてきたのは矢倉さんだった。矢倉さんはいつも皺の取れていないシャツを堂々と着ているのに、薄い生え際を隠すことには躍起なようで今日も後頭部から無理やりに額の方へと髪を持ってきていて相変わらずおかしな髪形だった。

「いやあ、痩せましたかね?」
「痩せたよ。なんか綺麗になったもん、彼氏できた?」
「いえ、できてないですよ」
「矢倉さん、もうそういうのセクハラになるんですって」

斜め向かいのデスクの高橋さんが冗談交じりにそう言って輪に入る。矢倉さんに対する嫌みかのように高橋さんはいつどんな時でもシャツに皺が入っていることはない。きっと奥さんが几帳面なのだろうと思わせられ、今日も薄い青と白のストライプシャツに紺のネクタイをかっちりと着こなしていた。

「ほら、澤部さんも困ってるでしょう。もう女性がどうとか言っちゃダメなんですよ」
「女性がどうとかって言ってるわけじゃないよ。綺麗になったねって言うのもダメなの?」
「とにかくダメなんですよ」
「ええ、生きづらいねえ」

そう言って矢倉さんが大げさに顔をしかめ、高橋さんは「いつ人事に駆け込まれるか分かんないですよ」と笑って、矢倉さんは「え、澤部さんも人事に駆け込んじゃうの、勘弁してよお」と、やっぱり笑っていた。

「いえ、私は大丈夫ですよ」
「ほらあ、澤部さんは大丈夫だよ。高橋くん脅さないでよ」
「澤部さんは『わかってる』女子だもんね」

高橋さんがにっこりと微笑んで私を見るので、私も微笑みを見せてから視線の先をパソコンの液晶へと戻した。

男性社員に「やりやすい」と認められたら楽なのに凛子さんはなぜしないのだろう

凛子さんが本社から出向勤務でやってきたのは2年ほど前のことだった。
胸下あたりまである長く艶やかでまっすぐな黒髪をさらさらと揺らしながら麻素材の変則的な白いパンツスーツを纏い、部長に引き連れられるようにしてオフィスに現れた。彼女が「今日からお世話になります、沢辺凛子です」と自己紹介した際、すぐに矢倉さんが「あれ、サワベさんっていんだ、もう澤部さんはいるからちょっとややこしいねえ」と軽口を叩いて私の方をちらりと見た。部長のデスクの前に集められた社員らは一瞬にして少し緊張感から解放されたような安堵の笑みを浮かべ、同じように愛想笑いを浮かべた私をよそに凛子さんは「では私のことは凛子と呼んでください。よろしくお願いします」と、はなからこうなることを想定していたかのように淡々と言葉を紡いでいた。その愛想笑いのひとつも浮かべぬままだった表情が、とても印象的だった。

凛子さんは勤め始めてからすぐに既存の資料作成のフォーマットなどに関して新しい提案を次々と繰り出した。凛子さんの提案は理に適うものばかりで、古い社員は感心し若い社員は尊敬の眼差しで見つめていたけれど、既存の物の方が要領を得ていると声高に話す長く勤務している社員たちによってなし崩し的に不採用となった。感心はすれど採用には決してならない所が、この組織らしいと思った日は幾度もあった。
凛子さんは就業中に矢倉さんや高橋さんに世間話を振られても「それは業務に関係のあることでしょうか」と無愛想に言ってさっさと会話を終わらせることがよくあった。私はそれを目の当たりにする度にこの人はきっと不器用な人間なんだろうと想像していた。社会で女性が生きるということ、その上で自分を楽にさせてくれるものとは諦めることであると、悲観的な意味合いではなく現実的に、いつからかそう心得ることができていた私にとって、彼女の芯を剥き出しにする部分は解せないものがあった。恋人の有無を聞かれても、他の女性社員の容姿を嘲るような下品な冗談の会話を振られても、自分自身にその矢が向いてきたとしても、その場を凌いで笑顔で対応していれば男性社員からは「やりやすい」と認められるのに、そのくらいのことならやればいいのに、なぜ頑としてやらないのか、もっとしなやかに生きればいいのにと、何度もそう思った。笑いたくないような女性へのジョークにも適当に笑い、苦痛だと感じる質問にも態度に出さず愛嬌で逃げる、傷つくようなことを言われても傷ついてないふりをしていれば彼らにとって「やりやすい」を創造することができる。それこそがこの社会で生きる「術」なのだと理解して、諦めて、迎合していくことは、単純に自分自身が楽に生きていくことができると分かっていた。

凛子さんはまさに私の想像する「フェミニスト」だった

「凛子さん、ちょっとムキになりすぎだよね」

桜の咲きごろがニュースで取り上げられるようになったけれどまだ肌寒い日の続く凛子さんが勤め始めてから半年ほど経った頃、昼休憩時に先輩の柏木さんが食堂でセミロングの髪を一つに結わえてからカレーを口に運びながらそう言った。

「ムキに、ですか?」
「男と張り合おうって感じがしてしんどくなる時ない?私ああいうの疲れちゃう。みんなも気いつかってる感じだし」
「ああ、そうですかね」
「てきとうに笑って流しとけばいいのに、矢倉さんのシャレとかにもいちいちムキになってる感じもするしさ。スルースキルがない感じっていうか。こないだも矢倉さんに目くじら立ててたよ」
「まあ、矢倉さん余計なこと言い過ぎですもんね」
「でもまあ普通のことだよ。凛子さんが溝口さんにちょっとキツめに言ったんだよね。そしたら矢倉さんが『やっぱ女同士って怖いねえ』って言ったの。別にみんな笑ってたんだよ。だけど凛子さんだけ真顔で『それって立派な女性蔑視ですよ』って言って空気ヤバかったもん。みんな笑ってんだからいいじゃんそんくらいって感じじゃない?あ、凛子さんのインスタ知ってる?」
「いえ、知らないです」
「なんかさ、フェミニストなんだって。よくそういうの発信してる。怖くない?これ、高橋さんが見つけたんだけどみんな引いてたよ。ちょっとややこしそうだよね」

柏木さんはそう言って少し笑いながら凛子さんのアカウントページを眺めていた。フェミニスト、と聞いた私は不思議と合点がいった。彼女の堅物でコミュニケーションにおいて融通の利かなさそうな点はまさに想像する「フェミニスト」という雰囲気なのだろうと妙に納得した。

その日の帰り、駅構内にある書店に立ち寄ってフェミニズムについて書かれてある本を二冊購入した。今となってはなぜその時そんな行動をとったのか分からないままでいる。

凛子さんが会社を辞めた。「性差別」が蔓延する部署だと報告したらしい

凛子さんが会社から姿を消したのはそれから三ヶ月後だった。私たちの知らぬところで凛子さんは人事部に異動願いを出していたのだという。噂によればセクシズムと呼ばれる「性差別」が蔓延している部署だと報告していたようで、私たち社員は個別に聞き取り調査と面談をさせられることになった。部長に尋ねられたのは部署内でのハラスメントの有無、そしてそれを認識していたかどうかということがおおよその内容だった。

「澤部さん、ここで聞いた話は内密にするから聞かせてもらえないかな」

だだ広い会議室の向かいに座る部長が、余裕のあるような笑みを浮かべてそう言った。

「いいえ、私は部署内でのハラスメントを感じたことは特にありません」

同じように笑みを浮かべて言えば、安心したような表情になった部長が、そうだよね、と、呟いた。内密になんてされるわけがないことくらい、もう十分に分かる程度には私も社歴を重ねていた。

「あ、澤部さんどうだった」

面談を終えて部署へ戻ると、高橋さんが楽しげにそう尋ねてきた。

「どうも何も、すぐ終わりました」
「そっか、何聞かれたの」
「部署内の様子のこととかですかね」
「なんて言った?」
「問題なかったように思いますと」
「あ、やっぱそうだよね。俺もそうなんだよね。ちょっとめんどくさいよね。こういうのって一人が騒ぎ出すと巻き込まれるんだよね。厄介だなあ」

高橋さんはそう言って笑って、話を聞いていた矢倉さんも後ろの席で笑い声をあげて、私も、同じようにして、笑った。

凛子さんにとって快適なではなかった環境の一端を自分も担っていたのだろう

「最近の若い社員ってすごいですよね」

居酒屋の座敷席で少し酔いのまわった柏木さんがやはり髪をひとつに結わえ、白菜の浅漬けをつつきながらそう言った。
「うわあ、でたよ柏木さん。若手社員に物申す御局様!」
柏木さんの横で鍋の雑炊の仕上がりを確認していた高橋さんは、そう言ってすかさず横槍を入れた。
「もう高橋さんやめてくださいよ、そんなんじゃなくて。飲み会とか全然来ないじゃないですか」
「飲み会に来いっていうのもハラスメントらしいですよ~」
高橋さんは茶化したようにそう言って、柏木さんは少しむっとした表情になった。
「なんでもかんでもハラスメントって、組織で生きていく為には多少我慢も必要でしょう?無理したくないとか、ありのままで生きていきたいとか、ぬるいんですよ。我慢しろっつの」
「うわあ、御局様はやっぱ怖いねえ」
高橋さんの横に座っていた矢倉さんが調子よく合いの手を入れ、数人が少し笑った。
「いやだから、今日来てる若い子たちは見どころあると思うんですよ。佐伯さんとか立川さんとかやっぱあなたたちは仕事も熱心にやってるしね」
そう言われた若い社員二人は瞬時に笑って頭を下げた。
「まあまあ、もういいじゃない。女の人ってめんどくさいね」
矢倉さんが大げさに変な顔を作ってそう言って、場にいた社員がまばらに笑い、矢倉さんは続けた。
「てか女の人ってすぐバチバチするよね。すぐ揉めるっていうかさ。男はあんまりそういうのないもん。DNA的にそうなってんのかな?」
「あ、矢倉さんそういうのヤバいっすよ。フェミにキレられますよ」
すぐに高橋さんがそう言うと、またみんながまばらに笑った。矢倉さんは「やばいよ、フェミが一番厄介だからな~やめよやめよ」と笑って、鍋の雑炊を覗き込み、おっ美味そう、と言った。

凛子さんは一度も飲み会に来たことがなかった。でも風の噂でお酒は好きなのだと聞いたことがあった。佐伯さんが一度、恵比寿の高級なレストランから凛子さんと恋人らしき男性が出てくる場面を見たと言っていた。業務に関係がないと言われそうで怖かったけれど、有給をとって沖縄旅行に行った際のお土産のサーターアンダギーを凛子さんに渡すとお礼を言われた後で「リフレッシュできましたか?」と笑いかけてくれたことがあった。凛子さんが矢倉さんに対応するみたいに自分も言ってみたらどうなるかと想像してみることも何度かあった。凛子さんにとって快適なではなかった環境の一端を自分も担っていたのだろうと、凛子さんがいなくなってからしばらくして考えるようになっていた。

「そういえば、今だから言いますけど」
そう言って深刻げに柏木さんが切り出した。
「凛子さんっていたじゃないですか。トイレで泣いてるの見たことあるんですよね」
ええ、凛子さんが、と、高橋さんと矢倉さんは一斉に身を乗り出した。
「半年くらい前かなあ、だから、辞めちゃう直前?」
「ええ、凛子さんも職場で泣いたりするんだ。俺会社で泣いたことないなあ」
「えっ、高橋くんないの?俺一回だけあるよ。前の職場でとんでもないミスした時」
「矢倉さんって意外と女子なとこありますもんね。ていうか凛子さんも普通の女の子なんですよね結局。お菓子渡すと嬉しそうだったもん」
「そうそう、そういう所いっぱい見せてくれれば私たちも取っ付きやすかったのに」
柏木さんが笑ってそう言うと、社員たちもまたまばらに笑った。さっきから全く減っていない二杯目のウーロンハイを眺めていると、そのうち卓上はぐるぐると渦巻き、柏木さんも高橋さんも矢倉さんも他の社員もみんながぐるぐるとマーブル状に渦巻いていき、あらゆる笑い声もその中に吸い込まれいく。雑炊仕上がったよと言う誰かの声と共に、自分自身の右腕もその渦の中に指先から吸い込まれていくのが肌で強く分かった。

本当はただ、女性であるっていうだけで侮辱的な言動をされたくないだけ

「凛子さんを『普通の女の子』にして安心したいだけですよね」

自分の口から出た言葉も、渦巻きの中にぐるぐると入り込んでいく。回り続けるその渦の中に垣間見える知った顔の人たちの驚いたような戸惑ったような表情が目につくけれどすぐにぐるぐると吸い込まれて回っていって止めようがなかった。

「怖いんでしょう。あんたらの既存の女性像を越えている人が。 凛子さんみたいに、迎合してこない存在が。そりゃ楽ですよ。あんたらの前でばかなふりして、知ってることも知らないふりすれば、あなたたちは安心するんですから。でもいつまで私とか、私たち、そんなことしなくちゃなんないんですか。女性についてとやかく言うと最近うるさいからって高橋さん、俺は社会のことや女性のこと分かってるって言うポーズだけ見せるけど、そんな表面的なことで敬遠して腫れ物みたいにして、結局あんたらにとってめんどくさいもんをそういう排除の仕方してるだけじゃないですか。笑いたくもない冗談に傷ついてないふりして笑って許容するのが『わかってる女』になって、フェミニストっていう存在を鼻つまみに仕立てあげることで居心地良くなるのって結局あなたたちじゃないですか。私も本読んでみるまではただの面倒くさい存在だと思ってましたよ、堅物で融通が聞かなくて文句ばっかり言ってる女って思ってました。でもそういうことじゃなかったんです。柏木さん、何も理解していないのは私たち女も一緒だったんです。私たち女性の中にも、諦めからくる押し付けを同性にしてしまってたんです。あの、矢倉さん、ちょっとした発言に垣間見えてるんです、私たちを見くびって、見くびり続けていたいっていうのが。そんなの被害妄想だって、そう指摘して、笑い者にするのはいつも男性じゃないですか。私たち女性だけの社会だったら誰がフェミニストを名乗ることを恐れますか。あなたたちに鬱陶しいって、面倒臭いって、そう思われるのが怖いから、いつまでもいつまでも変われなくて。でも本当は…ただ、普通に、女性であるっていうだけで侮辱的な言動をされたくないだけなんです。それを笑って許容する、そんな社会に加担したくないだけなんです。恥ずかしいのは凛子さんの方なんでしょうか。厄介で、面倒で、はみ出ているのは、本当に、凛子さん、彼女の方なんでしょうか」

言いきった後で渦巻きは勢いを増して蠢いていった。自分の口から放たれた言葉も、目の前にいる人たちの表情も、全てをのみ込んでぐるぐると回っていく様子が流れていた。

「澤部さん?どしたの?雑炊いらない?」

目の前の柏木さんがそう言って私に雑炊の入ったお椀を渡してくれた。
「あ、雑炊」
「酔っちゃった?気分悪い?」
「あ、いえ。はい、雑炊。いただきます」
「澤部さんってさ、本当に卒がなくて良いよね。みんな澤部さんみたいな社員だったら良いのにね」

そして矢倉さんの乾いた笑い声が放たれ、高橋さんも続いて笑った。柏木さんは「澤部さんが優しいからそうやって甘えちゃって」と矢倉さんに嫌みを言いながらも笑って、私もやっぱり、笑うしかなかった。

ヒコロヒーさん初の小説集「黙って喋って」1月31日発売

ヒコロヒーさん初の小説集「黙って喋って」が1月31日に発売されます。「ヒコロジカルステーション」で連載中の小説を加筆し、さらに書き下ろしも。朝日新聞出版。1760円。