「自信が欲しい」「自信さえあれば」と、何度思ったか数え切れない。他人と過ごしていれば自分に足りないもの、劣っているものなどマイナスな面を改めて自覚する。負けず嫌いで、常に相手の一挙一動に敏感な私は、自分の情けなさを毎度痛感する。
「自信がない」とよく言われる。運動はできるし、性格だって明るい方だ。けれど、何をするにも自信がついてこない。それは小学生の頃の体験から来ているものだと考えている。

何度も体型を笑われた。苦しい想いで過ごした小学生時代

私が小学生の頃、何度も太っている体型の事を笑われたりいじられたりした。周りとは違う体型であり、他人から見た私は異様であると認識したのは小学生になってからだった。
それより幼い頃は「可愛い」「ぽたぽた」などと大人達に可愛がられていたので、小学校という『軍団社会』で知識を付けていく子供達から見た私は、変であるのだなと身に染みて分かった。

学校生活の中で、嫌で嫌で仕方がなかった行事が1つある。それは「健康診断」…「体重測定」といったほうが分かりやすい。
先生も子供達も背が伸びたり体重が増えたりして、成長することを喜ぶものだが、私は違った。親には「肥満だ、痩せなさい」と言われ、先生にも体重を減らすよう注意され、同級生には毎回からかわれた。毎回体重計に乗る時や結果の紙が来た時に覗こうとされて、隠して苦い想いで過ごしていた。

そんな小さな頃から痩せなきゃいけないのは分かっていたし、こんな辛い思いをするんだったらこの世にいない方がマシだと感じたこともあった。でも食べる量を少し控えても、周りにからかわれるし、大人からは子供だから食べろと矛盾した言葉を掛けられた。
私は、太ってはいたが、何度も言うように運動神経は良く、人よりも運動はしていた。けれど痩せないままで悲しい気持ちもあったが、怒りの矛先を相手に向けられるからまだマシだった。

他人と優劣をつけていた中学時代。友達と比較して過ごした高校時代

中学生になると、直接私の体型をいじる人はいなくなったが、笑いものにする人は少なからずいた。私は運動部に所属したが、結局痩せなかった。
体型は自分の努力不足のせいだが、部活動は必死に頑張っていた。部活の試合で負けた時は、自分の体型を責めるようになった。責めたというよりも「体重が軽ければもっと機敏に動けた」「太っていなかったら体力ももっとあるのに」と言い訳をするようになっていた。

中学校というのは、小学校よりも生徒数が圧倒的に多く、自分と同じような体型の子もいた。この頃、自分の良くない感情が芽生えていた。それは、同じような体型の子を見ると自分と比べるようになっていたのだ。「あの子よりはマシ」「自分の方が圧倒的にデブだ……でも運動してるし」と、自分の中で他人と優劣をつけるような腐った心に支配されるようになっていた。

高校生では、最も自分の体型を恨んだ。幸いなことに友達も多く、よく遊ぶようになったのだが、みんな細くて平凡だから可愛い服を着て楽しそうにしているのを見るのは辛かった。
私だって可愛い服を着てオシャレをして、みんなとはしゃぎたかった。でも私が服を選ぶ時の基準は「可愛い」「かっこいい」などではなく、自分のサイズに合った服……言い換えると着られる服だった。
だから友達と服を買いに行く時は、自分のものは絶対買わなかったし買えなかった。サイズを知られるのも嫌悪感があった。プリクラや加工アプリで友達と写真を撮る時も、太ったぶにぶにの手が映るのが嫌で隠したり、顔が大きいから少し下がったりと気を使いすぎて楽しさが半減していた。

この時は、鏡で自分を見るのも嫌になったぐらいだった。私の周りの子達は「痩せたら可愛いのに」「痩せたらモテる」などと口を揃えて言ってくれたが、その「痩せたら」が私にとっては難しかった。

この体型だから得られたものがある。自信を持って生きていきたい

でも、私がこの体型になって得られたものもある。それは、相手の立場になって考えることが出来るようになったことだ。

他人のコンプレックスに敏感になることによって、気遣いはそこそこ出来る人間になれたのは嬉しい。もし、普通の体型だったら太っている人を見たら、今まで私が受けてきた皮肉や嫌味を自らが発していたかもしれない。

話を戻すが、私が1番欲しいものは自信である。体型へのコンプレックスに悩んで何かを成し遂げようとする気持ちが挫けるのではなく、クヨクヨせずに堂々と人前で話せて行動し、手を差し伸べられるぐらいの自信が欲しい。そして、自由に好きなことを好きといえて、人生を前向きに生きていきたいとずっと思っている。