両親と再び同居生活。物を増やさないようにと釘を刺された

つい先日、再就職のために引っ越しをした。大学から通算5年の単身生活に終止符を打ち、両親との同居になる。一人で部屋代を負担するのは大変辛かったので、ありがたい申し出だった。

搬出の準備を手伝いに来た両親を絶句させたのは、ものの多さである。
前の職場を辞めた時点で、フリマアプリを使って身辺整理自体は進めていた。大学で使っていたような本や未開封の化粧品は、多少高くてもよく売れる。逆に言えば、こまごまとした文具などはどれだけ下げても売れないことが多い。
ほかにも使い切れない化粧品や運びにくいガラス製品など、売買で処理しきれないものの割合が持ち物の中で高かった。それらがぎりぎりまで残ってしまったのだ。

一人暮らしと同居の違いの一つは、個人で使えるスペースの大きさだ。
大学を卒業した時は、アパートからアパートへ移るだけだった。断捨離を厳密にしなくても良かったが、今回ばかりはそうはいかない。なぜならば今度の書斎は、小さい子が寝起きするか、納戸にするような広さしかないのである。
搬入が終わってから、これからは気軽に物品を増やさないようにと母から厳重に釘を刺されてしまった。 

スペースが制限されたことと、両親の目が行き届く状態になったこと。この二つは結果的に欲しいものに対して、購入するかどうかの基準を厳しく明確にした。お金で買えるものに対する考え方が変わったのだ。
おかげで場所をとる高額な買い物は、スーツとパソコン用の排熱スタンドに今月はとどまっている。書籍もできるだけ、電子版を買うかレンタルを利用する予定だ。

分かりやすいのは「時間」。今、欲しくなるものはお金で買えないもの

一人暮らしをしていた時は欲しいか欲しくないか、そして買えるか買えないかで判断していた。場所も予算もない今では、必要か必要でないか、この一点を念頭に判断すればまず失敗はないということを、恥ずかしながらこの年で理解したのである。

現実の品物を欲しいという視線で見る必要がなくなった今、欲しくなるものは何だろうか。突き詰めればやはり、お金で買えないものが欲しいということになる。
最もわかりやすいのは、時間だ。ホテルに泊まったり接待をしたり、お金で自分や相手の時間の使い方を買うことはできる。しかし、時間そのものを買い、一日二十四時間を一時間延長なんてことは不可能だ。

次に浮かんだのは、お金そのものである。お金でお金を買うということは、結局は交換行為に過ぎない。コンビニでグーグルプレイカードを買ってチャージしても、実質は現金をデジタルの世界の通貨に変換しただけなのだ。空港で手持ちの日本円をユーロに替えてもらうのと、まったく変わらない。

必要かどうか吟味できないほど、現実逃避気味に視野が狭まっていた

ほかにも挙げればきりがないが、一番欲しいものが存在するとしたら、それは心の余裕だと思う。
余裕を持たずに時間やお金を与えられても、その使い方に対して正しい判断が私はおそらく下せない。現物に対する必要かどうかの線引きも、きっとぐちゃぐちゃになるだろう。
思えば、ものを増やしすぎた遠因は、仕事や病気でどこか追い詰められている感覚があったからではないか。必要かどうかを吟味できないほどに、現実逃避気味に視野が狭まっていた。仕事をする際も、パフォーマンスが落ちないようにゆとりを持って取り組みたいと今は考えている。

最後に番外編を一つ。愛はお金で買えるのか?買えるとしたらいくら出せば良いのか?これは少々難しいので、人生の先輩に頼ることにする。
寺山修司の「なんにでも値段をつける古道具屋のおじさんの詩」は、「ぼく」と「おじさん」の問答による21行の詩だ。この店では愛は春よりは高く、めったに売りに出ない。ちなみに季節は超高級品である。
最後の4行を以下に引く。

そこでぼくは 最後にたずねる
ぼくのいちばん知りたい質問

——愛となみだは
どっちが高い?

信さんの答え:どちらも時価で簡単には売れないし買えません。