「自分は可愛い」と、思っていた。中学に入って抱いた空虚な気持ち
自分が可愛くないと知ったのは、中学生のとき。
自分が何者にもなれないと感じたのは、高校生のとき。
歳を経ていくにつれて、自分にかかった魔法は解けていき、現実を直視するようになる。
それが“成長”と理解しつつも、心寂しい思いを抱くもの。
私が知りたくなかったことは、“何もない空っぽな自分”だ。
私の母親は過度なほどポジティブなので、自分の娘を「この世で一番かわいい」と信じていたらしい。お世辞ではない褒め言葉は、人を妄信させるものである。私は恥ずかしながら幼少期、自身を可愛いのだと絶対的に信じていた。(実際、親の加護の元、育った幼少期(幼稚園の頃)はツインテールに可愛らしい恰好をしていたこともある)。
ただし、中学校に入学した頃から周りが一変する。中学入学の子も増えて母数が増えたこともあるが、一部のおませな女の子たちは制服を可愛く着崩すようになったり、仲の良い友人も休日は髪を巻いたりうっすらとお化粧をしたりし始めるようになった。
どんどん周りが可愛くなっていくにつれて、私はいつまでも道端に落ちている石ころのようだと、空虚な気持ちを抱いた。努力もしないで、“可愛いあの子”と比べては落ち込んでいた。
自分の限界を感じた私は、自身の身の丈に合う無難な人生を選んだ
ある日、私は学校から帰って母に「私は可愛くもなんともなかった……」と言って、静かにしくしくと泣いたらしい。私は記憶にないが、母は娘からそんな言葉を言われるとは思ってもみなかったらしく、非常に驚いて鮮明に記憶に残っているらしい。大人になってからもその話がよく食卓にのった。
“親ばか”という言葉があるくらいなので、他の家庭でもわが子が可愛く見えるものであることは、なんとなく今なら私も理解できるが、中学生の心には「裸の王様」に仕立て上げられたようでなんとも空しく、だまされていたように思ってしまった。そういう気持ちにさせた母も、理解ができなかった。
その後、学業の面でもいくら頑張っても地頭の良し悪しがあることや、執筆や音楽等の才能の面でも上には上がいることを知り、自分の限界を感じてしまった。私は、音楽家になることも作家になることもなく、大衆の人生レールに乗って一般的な人生を選んだ。
今の人生にはそれなりに充足感があり、中学生・高校生と自分で自身の立ち位置を把握して、チューニングしながら人生を軌道修正してきたことに悔いはない。それによって能力以上の結果が得られたことも往々にしてあった。
ただし、時に大人になっても自分の可愛さや能力を信じている人間は一定数おり、総じてそのような人間の方が幸せそうなのも事実である。
自分の可愛さや能力を正確に理解することも確かに大事で、それは大きく道を踏み外すことはなく安定している。ただし、選択をする際、ストッパーにもなってしまっているのも自身の経験で感じる。
また、お世辞ではない褒め言葉が自身を妄信させるように、人にもそう信じさせる強さがある。自分で自分のことを可愛いと思っている子は笑顔が自然で余裕がある。カメラを向けられたときに変に意識をしてしまったり、身構えたりすることもない。人から与えられた褒め言葉もお世辞だと卑下することもなく、まっすぐに喜びと共に受け取るだろう。能力においても、自信があれば臆することなく降って来たチャンスを掴み、一定の成果をあげるだろう。そういった内面から溢れる確固たる「自信」が「事実」になっていく例を数々見てきたことも確かだ。
私が私にできることは自分を信じて愛すること。最良の道を進んでいく
SNSも普及してきた現代では、人と比べて自分の立ち位置を相対的に判断してしまいがちな人も多いのではないかと思う。周囲からも “可愛い”や“スペック”を型にはめられやすい。画一的な美しさやカリスマ性に大衆が群がっているのは、よく見る光景である。美魔女ともてはやされ、年齢に見合わない美貌が褒められる風潮もその典型だ。
それに比べて欧米諸国は、“みんな違ってみんな良い”と心から思えているのを感じる。しわやシミも人生の勲章と誇っているような気がするし、そばかす等があったとしてもそれを下手に隠そうとしたりしない。
どちらが幸せなのか……そう考えたときに、私は圧倒的に後者だと思う。
もちろん素敵な誰かをロールモデルにして努力をすることも大切であり、それで綺麗になれたり能力が伸びるのであれば、それも人生の大切な工程だと思う。ただし、結局はそのロールモデルとして憧れた人物より、自身が抜きんでることはなかなか叶わない。量産されて世の中に出荷されるだけだ。
私は、“最強だった”、“知らなかった”あの頃にはもう戻れない。
そんな自分にできることは自分の得意分野を伸ばして生産効率をあげることや、自分のパーソナルカラーやパーツを活かしたメイクやファッションをして、少しでも綺麗により良く見せるような工夫をする努力だ。結局、自身が持ち合わせているものを使ってしか勝負はできない。それを最大限にいかす努力をすることが、自分に残された最良の道だと思っている。
自分を信じて、愛すること。それは自分自身にしかできないことである。
自分の限界を知ったこと……私は、その時「最強になる道」が途絶えた。知らなかったあの日々には戻れないけれど、私は穏やかな最良の道を、確かに今この瞬間歩んでいる。