人間関係で損をしているな、と思う時がある。
 例えば、相手と感性がずれているために、相手と深い付き合いができないと実感するとき。
 去年の、まだ新型コロナウイルスが猛威を振るう前の事である。久しぶりにある友達と連絡を取った。高校時代からの友達で2、3年ぶりの交信であった。その後、共通の友達も交えて一緒に食事をした。高校時代の思い出話や近況報告などで盛り上がったのだが、その中で友達が「そういえば彼氏と別れた時、〇〇(共通の友達)ちゃんには世話になったね」と、共通の友達にお礼を言ったのである。
 この時、私は複雑な心境であった。友達に彼氏がいて、しかも別れたという驚きと、いつ付き合ったのか、相手はどんな人だったのかという好奇心と、友達を気の毒に思う気持ちと、なぜ私に教えてくれなかったのだろうという悲しみである。次第に悲しみのほうが大きくなっていき、家に帰った時には、旧友と会ってきた喜びよりも悲しさが増して、しょんぼり顔をこさえていた。
 なぜ友達は、恋人のことを私に相談してくれなかったのだろうか。高校卒業後は年単位で連絡を取り合わないこともあったが、嫌われているわけではない。嫌っていたら、そもそも食事に誘わないだろう。それに食事の時の会話から類推して、共通の友達も私とほぼ同じ条件、つまり友達とは定期的に連絡を取っていたわけではなかった。それならば共通の友達だけでなく、私に話してくれても良かったではないか。

私が恋をしたことがないから恋愛相談が出来ないのかもしれない

 心当たりがあるとすれば、私は恋をしたことがない、ということだろうか。
 昔から人に恋愛感情を抱いたことがない、と言うよりは抱けないのである。
 これでは恋愛から生じる様々な心の移り変わりに共感もできなければ、恋のアドバイスを授けることもできない。私に恋愛話を持ち掛けたところで、相手は話を聞いてもらえている、という実感を持てないだろう。私が内心では首をかしげて聞いているのだから。
 なぜ恋愛感情を抱けないのか、突き詰めて考えると思い当たる節がある。
 私は他人と比べると、「かっこいい」や「かわいい」などの感性に大きな隔たりがある、ということだ。
 人から聞いた恋愛話やドラマ、漫画の展開でよくあるのが、対象の人物を「かっこいい」あるいは「かわいい」を思うことである。その場合、容姿か性格にそのような感情が向けられる。容姿や性格が「かっこいい」/「かわいい」と思うから、その人のことを意識し始める。そこから必ずしも恋愛に発展するとは言えないが、この「かっこいい」/「かわいい」は恋愛の動機の一つであることに、多くの方が同意するだろう。
 そして、感性の問題なので個人差はあるものの、「かっこいい」/「かわいい」はある程度「型」が決まっている。
 例えば、猫や犬は「かわいい」ものとして、男性アイドルグループや男性俳優はイケメン、つまり「かっこいい」ものとしてネットニュースなどで紹介される事例が多い。特定の人を「〇〇に似ていてかっこいい」などとアイドルや俳優などに例えて噂をすることも、日常会話でよくあることである。反対に、「かっこいい」や「かわいい」の条件を複数人に問えば、それら、あるいはそれらに共通する要素を思い浮かべるだろう。

人間に対して「かっこいい」「かわいい」という気持ちが抱けない

 しかし、私の場合、その一般的な定義にすら共感できず、人間に対して「かっこいい」/「かわいい」という気持ちを抱けないのである。恋愛のきっかけの一つ(それも大きな一つ)を失っているようなものだ。
 例えば某有名アイドルグループを目にしても、お世辞でも「かっこいい」という感情が沸き上がらない。もしアイドルが流鏑馬をしていたら「かっこいい」と思える。
 ただし、その感情は人間そのものに対してではなく「流鏑馬」という要素に集中する。乗っている馬、甲冑、弓を引く所作など、流鏑馬を構成する要素に惹かれるのである。流鏑馬をするアイドルも流鏑馬を構成する要素の一つではあるが、これは別にアイドルではなくてもよい。一般人が流鏑馬をしても、私は「かっこいい」と思うだろう。
 したがって、私にとって「かっこいい」は人間そのものに向けられていない。また、人間の性格についても同様で、人の性格や行動に「尊敬」はするが恋愛に発展した事がない。
 このような性分なので、よくある「かっこいい」/「かわいい」という話題が苦手であった。小学3,4年生の頃、この年頃になると恋愛に興味を持ち始めて、クラスの中で「〇〇君かっこいいよね」、「誰が好き?」という話題が持ち上がることがあった。私が興味のない旨を伝えると、信じられない、おかしいというようなリアクションを取られたので、小学生ながら人間関係のやりづらさを実感した覚えがある。

恋愛という人生の一大イベントを見届けられなかったのが少しだけ寂しい

 個人的な意見だが、恋人ができるということは、人生が転換することだと思う。恋人は友達と違い、自分の人生の深いところまで関わってくる人である。私の友達は人生の一大イベントを経験したわけであるが、私はそれを見届けられなかった。
 私に恋愛経験の一つや二つあれば、友達は恋人のことを話してくれただろうか。私がこのような性分を持ち合わせていなければ、友達の経験を分け合い、一緒に喜んだり悲しんだりできただろうか。
 自分の性分について悲観はしていない。ただし折に触れて、感性の違いから深い人間関係を築けない自分を認めて、少しだけ寂しくなる時があるのだ。