西武新宿駅の柱には、こびりついて落ちない吐瀉物の色移り。5分しか離れていない新宿駅では東西が広い通路で結ばれ、色とりどりのDiorの広告が流れているというのに。目に入れたくもない赤茶色から目を逸らしながら、水曜だというのになぜか混み合いながら中央改札に向かう人の流れに逆らい、足早に北口改札を出る。
3分遅刻しているというのに、彼はとびきりの笑顔でわたしを迎えた。それどころか、手にはファミマの袋。
馬鹿みたいに鮮やかな内装のホテル。彼が選ぼうとしたのは赤い部屋
「飲み物買っておいたよ。ジャスミンティーでいい?」
サイトで知り合った人と会うのははじめてで、と不安そうだった半年前の彼の顔がよぎる。逢瀬も4回目となれば慣れたものだな。
ありがと、と目を合わせないように、でも微笑みを忘れずに返し、歩いて10歩ほどの、いつものラブホテルに足を向ける。
カラフルと名のつくそのホテルの内装はどの部屋も馬鹿みたいに鮮やかで、いつも見るだけでうっ となってしまう。赤い部屋を選ぼうとする彼を遮って、こっちにしたら?と黄色い部屋のボタンを押した。却下されたにも関わらず、彼はそっか、そっちのほうがいいね、とにこにこしている。
黄色い部屋の壁にはまぬけな顔をした鳥のイラストが描かれていた。手書きっぽいけど、誰がデザインして誰が描いたんだろう。ラブホテルの内装のためにキャラクターをデザインするのはどんな気持ち?……知らなくていいか。
時間と分量をきっちりと計って淹れてくれた、私のための紅茶
着いてすぐ、てきぱきと何かを用意し始めた彼をぼーっと眺めていたら、いきなり目の前に紅茶のカップが置かれて戸惑った。
「どうしたの?」と問うと、「るいさんが好きって言ってたから、買ってみたんだ」と得意げな表情が返ってきた。テレビボードを見やると、スケールと茶漉しが見えた。
「タイマーつきのスケール、便利でしょ」
コーヒー好きが高じてキッチンカーを仕事にしている彼が、時間と分量をきっちり計って淹れてくれたらしい。いただきます、と一口飲むと、ベリーのようなフルーティな香りとともに渋みのない味が広がる。
「おいしいね、どこのお茶?」
「ルピシアのアウトレットが代官山にあって、そこの限定のやつ」
どうやら彼は、わたしが飲むだけのお茶をわざわざ代官山で買ってきたらしい。
「今度るいさんも行ってみてよ。種類もたくさんあったよ」
「知らなかった!行ってみるね」
彼の言う「るいさん」はわたしのことだが、本名ではない。彼もそれを知っているが、最初から名前を聞かれることはなかった。聞かれてもはぐらかすことがわかっていたからだろう。
彼と一緒にいると、「かわいいね」「上手だよ」「るいさんは本当にスタイルがいいね」ととにかく礼賛の雨が降る。それがどうにもくすぐったくて、「疲れちゃった」と1回だけで切り上げようとしたけど、月一の逢瀬で出し切らんとばかりにねだってくる彼をかわしきれず、結局3回もすることになった。
早めにホテルを出て新宿の街へ。同期の結婚式用にドレスを新調する
彼がもう一度紅茶を淹れてくれ、それを飲みながら他愛ない話をしたけど、予定があるからといつもより早めにホテルを出た。本当は予定なんかなくて、ただ、彼の熱のこもる目線に耐えきれなかっただけだ。
新宿の平日16時はまだ社会人もおらず、暇そうな顔の学生ばかりが目立つ。今週末、職場の同期の結婚式があることを思い出し、久しぶりにドレスを新調するかとルミネに向かった。アローズやビームスでもよかったけど、とりあえずドレスを専門で扱う店に立ち寄って、物色する。適当に2、3着選び、試着室に入った。
きつい。ファスナーが上がらない……あ、ギリ上がった。当日少しでもむくんでたら入らないかも……と不安がよぎる。ていうかこの状態で果たしてフレンチのフルコースを食べ切れるのか。
恐る恐るカーテンを開けると、店員さんが「やっぱり落ち着いた色が似合いますね!」と声をかけてくれる。持っている靴やバッグについて相談しつつほかのものも着てみると言うと、ファスナーを下げてくれた。その動作が、やっぱりわたしに意識させない程度に力んでいて、その場から消えたくなった。わたしは、フリーサイズがきついと感じる程度に、太っている。その事実が、重く冷たくわたしを包んだ。
さっきまで褒めちぎられていたわたしの体は、思っていたより醜くて
カーテンを閉め、ドレスを脱ぐと、下着だけをつけた体が露わになった。家には鏡がないので普段は見ないが、ついさっき、きれいだ、かわいいと褒めちぎられていたわたしの体は、下腹がだらしなく盛り上がり、二の腕もたくましく、太ももが張っている。体だけの関係を続けて、誰を選ぶこともなく、選ばれる舞台にも上がらず、ずっと下心に基づくゆるい賞賛に浸っていたわたしの体は、わたしが思っていたよりずっと醜かった。
結婚式を開く彼女は、誰かを選んだり、選ばれる過程で、理想と現実の自分の違いに傷ついただろうか。伴侶となる彼は、それを認めて愛してくれるひとなのだろうか。自分と向き合わず、努力をしなかっただけのわたしが、それを羨ましく思うのは許されないことのように思え、カーテンの中で、紺のレースの模様をひたすら目でなぞることしかできなかった。