私には2歳年下の妹がいる。私の塗り壁のようなのっぺりした顔とは違い、ハーフのような端正な顔立ち。幼い頃はよく「フランス人形みたいで可愛いね」とあらゆるところで声を掛けられていた彼女。
そんなことが身近にあった為、物心ついた時には「可愛い」という形容詞は容姿にのみ使う褒め言葉だと認識していた。

「この子は大丈夫」です。母にとって私は「用なし」だと悟った日

姉妹揃って幼稚園に通っていたある日、妹はキッズモデルになった。
2歳しか変わらない私たち姉妹はお揃いのワンピースを母に着させられて、妹の雑誌撮影に母と妹と3人で向かった。
現場に着くと大きなスタジオに大きな照明、そして沢山の大人たちが待ち構えていた。
妹を迎えに来たスタッフさんはお揃いのワンピースを身にまとった私たち姉妹を見て「よかったらお姉ちゃんも撮影どうですか?」と声を掛けてくださった。その誘いの言葉が終わる前にさえぎるようにして母は「この子は大丈夫です」と口早に制した。

幼いながらこれが「悲しい」という感情なのだと知った。
妹が誌面に載った雑誌は母が親戚中に配り、妹は注目の的となった。
その時、母にとって私は「用なし」なのだと悟った。

「用なし」だと知ってしまった私は母に「媚びる子」になってしまった。
母に好かれたくて、母が勧める習い事は拒否せずに通った。逆に楽しい習い事でも母が「あの先生とお母さんは馬が合わないから」と言えば、先生は悪者なんだと自分に言い聞かせて習い事を辞めた。

母がPTAの中でいい気分になってもらえればと生徒会に入り、指定校推薦で母が憧れていた女子大に入った。
母が親戚中で鼻高々だと誇ることができれば大学卒業後は有名なコスメブランドに入社し、百貨店で化粧品を販売する美容部員になった。

「媚びる子」で居られなくなった時、あるオーディションに出会った

四半世紀近く母に媚びて自分に合わない環境に身を置きすぎたが故に、ついにガタが来てしまった。
私は適応障害になり「媚びる子」では居られなくなってしまった。
抑うつ感や不安感で飲食も睡眠もままならなくなり昼夜逆転する生活。夜が深まれば毎晩吐き気と焦燥感からパニック症状で過呼吸になり、当時半同棲をしていて結婚を視野に入れていた元彼からは「お願いだから寝させてよ」と突き放された。
これ以上彼に迷惑は掛けられないと思い、私から彼に別れを告げた。

私は何のために身を粉にしてきたのだろうと情けなくなった。
そんな休職中のある日、以前から暇潰しでリスナーとして見ていた配信アプリでラジオのアシスタントMCのオーディションがあることを知った。
中学生の頃からラジオを聴くのが好きで、片道1時間半かかる通学路の途中で公開収録されているラジオブースを覗いてから帰宅するのが秘かな楽しみだった。
高校生の頃、「ラジオパーソナリティになるにはアナウンサーを目指すのが近道である」と現役アナウンサーに聞く機会があり、大学3年生の時に元アナウンサーの講師の元でアナウンスレッスンを受けていたこともあった。
「媚びることを辞めて、自分の意志に従ってみるチャンスだ」と思い、どこからともなく沸いてくる「私はこのオーディションで合格してラジオパーソナリティになれる」という自信だけでエントリーした。

「用なし」なんだと知った悲しみは、自分に向き合う気づきをくれた

オーディションの審査項目であるライブ配信をアプリを通して10日間行った。
無事に審査員特別賞を受賞し面接も突破して、昨年の3月にラジオパーソナリティデビューを果たした。

私が出演するラジオ番組のリスナーさんは私の容姿だけではなく、しぐさや言動について「可愛い」と形容してくれるので、以前抱いていた「可愛い」という形容詞が持つ“差別感”がいつしか私の中から薄れていった。
そのおかげで私自身も他人に対して素直に「可愛い」という感情が抱けるようになった。

皮肉なことに過去にキッズモデルをしていた妹の様に多くの人に可視化できる形で現在活躍の場がある私。
あの頃見栄っ張りだった母も丸くなり、「本当に自分がしたいことをしてるリサちゃんはイキイキしていてお母さんも嬉しい」と自らの虚栄心よりも素直に娘の幸せを願えるようになっていた。

「この子は大丈夫です」と母から制されて「用なし」なんだと知ったあの日の悲しみ。
そこから媚び続けた日々は長く苦しかったが、自分に向き合うという気付きを与えてくれた。