美人な姉とそうでない私。予防線を張るため「私」は「俺」に
ピンクは苦手だった。
女の子らしいものは、いつでも私の隠したい想いを暴いてしまいそうで、私の不安を煽る。
11歳離れた姉は、それはそれはもう可愛くて、お姫様のように育てていたと両親は言っていた(実際、妹の贔屓目を抜きにしても美人である)。
バブルの景気も相まって、姉はリカちゃん人形顔負けの素敵なクローゼットに、一回しか履いたことのない靴を山のように持っていた話も何度も聞いた。というか、姉は今でもイメルダ夫人ばりに靴を持っている。
当時、思ってもみなかった次女の私の誕生に両親は困っただろうけれど、とても可愛がってもらったし、同じように大切にしてもらった記憶はある。
でもどうしたって私は姉のように可愛い顔立ちではなかったし、両親や姉に不細工と言われたことはなかったけれど、私が勝手に自尊心を傷つけられないように予防線を張るしかないと思っていた。
4月生まれで成長も早く、体格も良かった3歳の“わたし”は、いつからか“俺”になった。
子供ながらに、両親の「男の子も育てたかった」という言葉を聞いていたのかもしれない。八百屋のおじちゃんに坊ちゃんと言われて嬉しかったのも覚えている。わたしが俺なら、みんな喜んでくれるのかも?なんて。
俺は俺のまま、保育園、小学校へと進んだ。
性自認は女性だったし恋愛対象も男性だった。
でも仮面ライダーも大好きだったし、人魚姫にも憧れているようなちょっと口の悪い、木登りが好きな女の子だった。
俺にとってピンクは遠ざけるベき色。制服のスカートに複雑な思い
何で自分のこと俺っていうの?という質問はもう数えきれないくらいされていたけれど、当時の友達はみんな仲良くしてくれていたし、両親に咎められることもなかった。俺が俺であることで、別に困ったこともなかったし、運よくいじめられることもなかった。
でも作文に私と書くのが嫌で、僕と書いて提出して再提出をくらったことはあった。男の子に混じって殴り合いの喧嘩をしたことは、ここだけの秘密にしておこう。
この頃は、女の子らしいものが少しでも好きな素振りは誰にも見せられなかった。俺が俺であるために、ピンクは一番忌々しい、遠ざけるべき色だった。
中学に上がる時、制服のスカートを履くのが複雑だった。女の子らしいものを遠ざけてきたけれど、スカートが嫌いな訳ではなかった。表に出せないだけで、可愛いスカートに憧れる自分もいた。
私服では一着も持っていなかったスカートを、強制とはいえ履いて歩ける。けれどスカートなんて、と思う自分もいた。今思えば思春期だなあと笑えるけれど、当時の俺には由々しき問題だったのだ。
しかしながら中学でも無事に俺を貫き通し、3年生の時には俺というアイデンティティについての作文で市長賞まで頂いてしまった。実際は全く手を付けていなかった夏休みの宿題で、夜中にサカナクションのアイデンティティを聴きながら殴り書いた作文だったので、ちょっと笑えた。
作文の講評には、“俺”を貫き続けるのは難しいが自分を持って頑張ってほしいと書いてあった。その時はそんな簡単なこと、と思ったのだけれど、高校生になる時に嫌になる程それを実感した。
ずっと苦手だったピンクが似合う父を見て、何かすとんと落ちた
親しい友達の間だけなら俺と言えたけれど、段々と自分を出しづらくなっていった。それと同時に俺は“私”に。なるほどこういうことかと講評を思い出す頃には、私は完全に“私”になった。
それでもやっぱり、ピンクは苦手なままだった。ある時、実家に帰ると父がピンクのポロシャツを着ていた。私が苦手なピンクが似合う父の姿を見て、つかえていた何かがすとんと落ちた気がしたけれど、見ないふりをしてコーヒーと一緒に喉の奥に流し込んだ。
俺が“私”になって、久しく経った。主人と2人、酔って歩く帰り道で昔話に花が咲いた時、「俺もさ」と不意に口をついて10年振りに私は“俺”に戻った。
私が俺だった頃も知っている彼は、特にそれに触れることもなく会話は続いた。俺を無下にしてしまったような気がしていた私は、それが何だか嬉しかった。
俺を押し込めて、代わりに得た普通は私に沢山のことをもたらしてくれたけれど、それもまた、過去の俺の恩恵の一つであることにようやくその時気づけた。
ピンクは女の子らしさの象徴ではない。誰がピンクを好きだっていい。勿論、嫌いだって。
女だからが嫌だった自分自身に、実は一番バイアスがかかっていたこと。仮面ライダーが好きだった俺も、人魚姫に憧れた私も、ピンクが苦手だった俺も、全部ひっくるめて愛すべき私という人間であるということ。
26歳になった今でも、ピンクは勇気のいる色だけれど。今度、一歩踏み出してピンクを選んでみようと思う。
俺と私が共有できる、一番いい色だと思うから。