私の弱気を「甘え」と母は言う。だから「大丈夫」と言うしかなかった

『見栄っ張り』が捨てられなかった。つらい気持ちになっても、「何かあった?」と聞かれても、すべて「大丈夫」と返した。

ストレスが溜まっても、誰かに弱気なところや醜いところを見せることを、他人には許しても自分にだけは許せなかった。
自閉症、そしてADHD。人よりストレスを感じやすく、そしてうつ病になりやすい発達障害を持って生まれても、普通のフリを強いられた。
だから見栄を、虚勢を、意地を張って毎日戦い続けなければならなかった。誰もが、私の弱気を「甘え」だと言うから。

最初に、私の弱気を「甘え」だと言ったのは母だった。

小学生の時、クラスの知的障害のある男子にしつこく付きまとわれ、あまりのうざさに十倍にやり返してしまった。
もちろん、今思えば私にも非がある。しかし事実をありのまま話して、自分の気持ちを話しても、母は「お前が悪い」と決めつけた。少ないながら友達がいるのに、「そんなのだから友達ができない」とも、勝手な憶測を突きつけられた。

母の脳内の私は暴力的で、クラス1の問題児らしい。先生が母を諌めるも、母は頑固に自分の意見を曲げなかった。

その後も、受験勉強が行き詰まり、やる気を感じなくなった私に「甘えるな」と持っていたインスタントコーヒーの瓶で頭を殴った。高校に上がり、模試の数学の得点が校内1位の時も「調子に乗るな」と貶した。
母は、人の長所を見つけて褒める才能がまるでなく、短所をほじくり出してとことん貶め侮辱する才能にあふれていた。

親元を離れたのを機に手に入れた障害者手帳。新たな一歩だと思った

弱った自分に欲しかったのは叱咤激励じゃない。共感が欲しかった。いくら頑張っても「頑張ったね」と心を満たしてくれる言葉をくれないのなら、限界を越えてでも頑張るしかない。誰も潰れそうな私を慰めない。誰も窒息しそうな私を助けない。

だから、楽しいことが楽しいと感じられなくなっても、家賃などが払えなくなっても、然るべきところに相談に行くことは負けだと思っていた。
自閉症、ADHD、そして仕事によって発症した不眠症とうつ病。こんな自分でも障害者手帳を作ることも、親は許してくれないと思っていた。

しかし親元を離れて一人暮らしをしているので、親に知られずに作ることができるのでは、と思い立って心療内科の通院を始め、手帳を作ることにした。
どうせ親にはバレない。幼少期に通った思春期外来の病院も覚えている。そこに連絡をし、カルテを送ってもらう。それらを参考資料として手帳発行の申請をした。
数ヶ月して申請が通り、精神保健福祉手帳を手に入れることができた。障害者として働くためのパスポート。新たな第一歩を踏み出せた気がした。

頭の中にはストレスの種である母が住み着く。見栄や虚勢を捨てられたら

しかし、その後ももし体調を崩したとしても、私は「大丈夫」と返すだろう。飛んできたボールを無意識に正しいフォームで打ち返すように、反復して覚えたクセはなかなか治らない。

人前で疲れを見せたら、「自分達だって頑張ってるのにお前だけずるい」と思われる。「障害者手帳を免罪符にしてる」「障害者枠だからって自分勝手に休むなんていい身分だ」……言われたことがなくても、そんな言葉が頭に湧いてくる。

人よりストレスに弱い分、主なストレスの種である母が脳内に住み着いている。母によってかけられた呪いが未だに解けない。心を満たすためにいくら好きな作品に貢いだり酒を飲んでも、根本的な解決には至らない。

いつか自分の弱い部分をさらけだせる相手に巡り会えたら。心に真の意味の安らぎが訪れるだろうと思う反面、そんな私の弱みにつけ込んで騙してくるに違いない。見栄っ張りな私は、初対面の人に対しての警戒心も捨てきれなかった。

見栄、虚勢、意地、警戒心。全て断捨離できればスッキリするはずなのに、散らかしっぱなしの部屋を見て掃除のやる気が出ないように、そのまま放置してしまっている。いや、友人や家族に会う時に発症する呪いだからこそ、捨てようにも捨てられないのだ。