例えば環境の話とか、食の話とか、真面目になればなるほど邪険に扱われてしまうのはなんでなんだろうなぁ。
もっと、すんなり自分の前に問題がやって来る時まできっと、それは鬱陶しいジャブのようなものなんだろうなぁ。
今、わたしの目の前に「今後の食生活」の変更をするか否かという問題がどーーんとやって来た。きっかけは去年まで一緒に焼き肉を食べに行っていた友達がヴィーガンになったことだった。その子に感化されるように食に関する確かな違和感をわたし自身も感じてしまった。そして、その違和感に向き合う余裕が今の自分にはあるのだ。
命があったことを知った幼少期。泣きながら食べた魚は美味しかった
わたしはお肉が好きだ。
美味しいよね!唐揚げもハンバーグもその他もろもろ美味しいお肉料理はたくさんある。
でも、それが命であったということを、わたしはどこかで忘れながら食べている。
それがどんな環境で生まれ育ったのか知らないまま、食卓に乗ったものを安全で、幸せな食べ物として疑わない。
どんな劣悪な環境で育ったとしても、不安や恐怖の中で苦痛を伴い死んでいったとしても知らない、関係がない。
知らなければ幸せなのだ。
知らぬが仏なのだ。
だけど、今、わたしは幸せなのが食卓だけで良いのだろうかという疑問に対面している。
知らず知らずのうちに自分が生きやすいように、生き物を食べ物やモノに置き換えてきたのだ。
だけど、ここにきてもう一度元の感覚を取り戻そうとしている。
命を食べていることを知った日を思い出す。
あれは、幼少期、家族で海に出かけて初めて魚を釣って帰った日だ。
わたしは自分で釣り上げたその魚が可愛くて、飼いたいと思った。
小さな魚だった。
多分、ハゼだと思う。
どんな話を両親としたかはちゃんと覚えていないけれど、その魚は飼われることなく、鉄板の上に焼かれ食卓に上がったのだった。
幼いわたしは泣いた、可哀想だと思ったし、悲しかった。
でも、泣きながら食べた小さな魚は美味しかった。
そして、今でも覚えてるけれど、骨が透き通っていて青くもあった。
新鮮な証拠なんだろう。幼いながらにきれいだと思った、ありがとうとも、ごめんねとも、美味しかったよとも思った。
あの食事は忘れられないのに、あの時覚えた感謝は忘れていた
あの食事は忘れられないのに、あの時覚えた感謝は忘れていた。
魚はいつからか自分で捌けるようになって、食べることへの罪悪感もない。
同じような感覚のまま肉も美味しいと食べていた。
けれど、最近、哺乳類にはどうしても罪悪感を感じてしまう。
覚えてしまったらもう無視できなくて、近頃は肉を買わなくなった。
完全にやめることは考えてないけれど、少しそっちの方向へ進もうと思っている。
その理由は、肉に関わる人たちの中に尊敬し、大事に思う人もいるからだ。
その人たちは肉をはじめ、食事にとことん向き合い、厳選された食材を使ってハムやソーセージを作っている。
わたしはその人たちが一生懸命にしてる仕事を環境に悪いとか、命を大切にしていないとか思わない。むしろ、丁寧に食に向き合う彼らの仕事にこれからの食事への関心の変化が広まることを期待している。わたしはそういった人たちを応援したい。
応援すると言うことは彼らの仕事をしっかりと知ること、アニマルウェルフェアや飼料のオーガニック化などエシカルなもの作りをしてるところのものを選ぶこと。
それが今のわたしにできることではないかと思う。
地球や動物に優しい生活は、わたしを優しく変え始めている
わたしたちは都合が悪いと考えることをすぐにやめる。面倒くさいことはしない。それに助けられることもたくさんあるけれど、時期によっては、事によっては、考えたらもっといいこと、もっと楽しくなることってあると思う。
わたしは友達のヴィーガン移行に考えさせられて、毎日の食生活を考え直し始めている。
少しずつ肉を食べる量を減らして、食べる時はどう作られたのかしっかり知って選ぶ。
また、肉を控えると大豆製品の美味しさに気づく。
豆腐が食べたい!油揚げが食べたい!納豆が食べたい!そう思う方が自然と強くなってきている。
地球に優しい、動物に優しい食事を選んでゆくと身体にも変化が現れた。
余分な脂肪が落ちて、頭がスッキリしている。それはわたし自身にも優しくあることだった。
肩苦しくせず、自分のできる範囲でいいものを選ぶ。それは楽しいし、わたしを優しく変え始めている。