いつのクリスマスだっただろうか。多分高校生の頃だったと思う。
サンタさんの正体がとっくに父母だと分かった後でも、信じていた頃よりは細やかになったものの、毎年クリスマスの朝になると小さなプレゼントがツリーの下に置いてあった。

愛が分からなかった私は、彼氏ができれば満たされると思っていた

「今年は何が欲しい?」と聞いてくる母に応えるように、私は「愛が欲しい」と書いた短冊をツリーに飾った。
冗談半分だったが、でも本気も入っていた。
なかなか彼氏ができずに、今年もぼっちマス(=ぼっちクリスマス)を迎えることに悩んでいたからだ。
あんたねえ、短冊って。七夕じゃないんだから、と母は苦笑した。

その頃の私は、愛がどんなものであるかを深く考えることはせず、わかりやすく彼氏ができれば愛されて満たされるものだと信じていた。
彼氏はいないものの、勉強、部活、行事、課外活動に忙しく、家族や友人に恵まれ、充実した高校生活を送っていた私は、クリスマスに無邪気に愛を求めた。そのころは、自分がいかに既に愛に包まれているか考えたことすらなかった。
皮肉なことに、人生が上手くいかなくなって初めて愛を感じた、というのが今回のお話である。

躁状態の私は母を平手打ちし、謝ることもなく入院することに

私の人生が暗転したのは、高校を卒業して浪人生活を送っていた19歳のときである。大学受験の過度なプレッシャーがトリガーとなり、双極性障害Ⅰ型を発症したのだ。
双極性障害とは、鬱状態と躁状態を繰り返す病気だ。躁状態では異常に気分が高揚し、自信過剰・高圧的になり、睡眠時間は減少するのに過活動になる。まるで自分がこの世界の神様になり、なんでもできるような妄執に取りつかれるのだ。

「なにもできないのが鬱、なんでもできるような気がするのが躁」「辛いのは鬱、怖いのは躁」と巷では言われている。これらの分かりやすいフレーズに私なりに付け加えるのであれば、「自分を傷つけるのが鬱、周りを傷つけるのが躁」というものだろうか。
私もこの病気を発症してから、どれほど多く自分が傷つき、どれほど多くの人を巻き込み傷つけたか知れたものではない。一番大切な、家族を、沢山傷つけた。

バシン。10月の乾き始める空気に高らかに響き渡る音。激躁状態だった私が、言い合いになった母に手を上げ、平手打ちした音だ。
打った瞬間に母の目が驚いたように大きく見開かれる。と同時に、私も自分が衝動的にしたことへ驚き、自分も目を見開く。
正気でなかった私は鎮静剤を打たれ拘束され、そのまま母に謝ることなく閉鎖病棟に入院した。

入院して1ヶ月。部屋に飛び込んできた母の腕の中で涙を流した私

閉鎖病棟では1か月、監視室で病室の外に出ることなく、過ごした。少しずつ冷静になった私は、しでかしてしまったことの大きさに後悔ばかりしていた。
親に暴力を振るわれたことなど一度もなかったのに、そんな風に大切に育ててくれた母を殴ってしまった。打った手はじんじんとまだ痛む気がする。
やってしまった、もう母に見放されたかもしれない、という不安がじわじわと広がる。どう謝ればいいのだろう、ずっと逡巡していた。

母に再会したのは入院した1か月後だった。
母をどきどきしながら病室で待っていると、コンコンとノックされた。入って良いよ、と緊張でカラカラになった口で許可を出すと、母が飛び込んできた。
久しぶり、などという挨拶を取っ払って、気づいたら母の腕の中にいた。抱きしめられていたのだ。
「ごめんねえ、殴って本当にごめんねえ」と抱擁されながら謝っていると、気づけば涙が流れていた。
「いいの、いいのそんなの。やっと会えて嬉しいよ」
母はニコニコしながら言ってくれた。

入院生活は3か月に及んだ。退院しても、鬱状態から外出することすらままならず、何もかもうまくいかなかった私は、引きこもりとなった。
一日中ベッドで寝ているだけ。そんな私を家族は小言を言わず温かく見守ってくれていたが、母から一つだけ仕事を与えられた。

ちょうどいい距離感で私を見守ってくれた母に、何度も救われた

それは夕食当番である。週1~2度ほど、家族5人分の夕食を作るという役目だ。
上手く回らない頭でご飯を作ることは、健常時と比べ時間も体力も必要な上、出来上がりはいまいちであった。
でもそんな夕食を「美味しいねえ」と家族はほめてくれ、母は「ご飯を作ろうと起きて、一からメニューと段取りを考えて実際に作るって、今のまよにとっては大きな進歩だね!すごいことだよ」と言ってくれた。
母が、私が色々な料理に挑戦できるように、色々な食材と調味料をいつも冷蔵庫に用意してくれていた、と気づいたのは、夕食当番でリハビリし、少し元気がでてからだった。

丁度良い距離感で見守ってくれている母は、ほかにもこんなことを言ってくれた。
浪人という体面でひきこもりをしていたときは、「今年は受験会場にいけばそれで目標達成だから!」と励ましてくれた。
「娘がひきこもりで焦りはないの?どう思っているの?」と問い詰めると、「活動的なあんたのことだから、いつか布団の中にいることに飽きて部屋から出てくると思っている」と返ってきた。
大学に入学し、ドイツに短期留学するまでに回復するも、留学先のミュンヘンで体調を崩したときは、「大金がかかったのにもったいない!」と言われるかと思いきや、「挑戦したことに胸張っていつでも帰ってきな」とLINEが来た。

「やればできるよ」
「あんたなら大丈夫」
そんな母の一言に何度救われただろう。

自分が母にしてもらったように、私も母を愛し続けることを誓います

「健やかなるときも病めるときも愛し合うことを誓いますか?」という結婚式の有名なフレーズがある。愛とは何か、まだよくわかっていない私だが、母が健やかな私にも病んでいる私にも注ぎ続けてくれたのは、きっと愛だ。
私が病気から回復し、ひきこもりニートから大学を卒業し、一般企業で働けるほど変わったのも、心の奥底に川のように流れる沢山の愛に支えてもらったからだ、と思っている。

母も今年で60歳、還暦を迎える。今まで元気いっぱい健やかであった母も、これからは加齢に伴い、病んでしまうこともあるかもしれない。そんなときも、自分がしてもらったように、母を愛し続けることを「誓います」。
今年のクリスマスツリーには、短冊に「健康第一」とでも書いてみようか。少し渋いリクエストに、サンタさんも苦笑いかもしれないが。