「もしあの日に戻れるなら」
その言葉をふと見た瞬間、今年祖父が亡くなった日が脳裏をよぎった。
バレンタインデーの夜だった。
世間はハートで溢れ、恋人達が愛を歌う日に。
死ぬまで喧嘩するだろうと思っていた祖父が、体調を崩し入院
祖父とは中学の頃から仲が悪く、顔を合わせば喧嘩しかしていなかった。
常に口うるさく、頭の固い人だった。
デリカシーがなく、「太ったな」だとか「顔がまんまるやな」と体型のことをよく率直に言うものだから、年頃の私は腹が立って仕方がなかったのだ。
「多分この人は100歳を超えても死なないだろう。じゃあ死ぬまで喧嘩するんだろうな」と勝手に考えてもいた。
去年の10月だか、11月だか。とにかく秋も深まり、京都の山が夕日のような美しいオレンジ色に染まった頃、祖父は体調を崩しそのまま入院した。
手術の後、意識が戻らなくなった。
意識のあるうちに会ったのはたった1回きり。
それもコロナ禍でのお見舞いが禁止されていたので、長い廊下の端から手を振る祖父を見ただけだった。
話すことはおろか、声を聞くことさえ出来なかった。
後悔は波のようにゆっくりと押し寄せ、祖父の面影を追う自分がいる
意識不明の状態のままこの世を去ったのは、祖父にとっては不名誉極まりなかっただろう。
お酒が入ると、よく若き日の武勇伝などを聞いてもいないのによく喋る人だった。
世界を渡り歩いた話や、世界の山々を登った話。戦争の話や、お酒の飲みすぎで警察沙汰になった話など、祖父の会話の引き出しが空っぽになることはなかった。
だからこそ、余計に祖父からしたら不名誉な死であったに違いない、もっと話したいことは山ほどあっただろうにと私は考えるのだ。
そう思いながら肌寒くなった京都の街を歩くと、よく祖父に似ているご老人を見つけギョッとする。
勝手に祖父の面影を追っている自分がいる。
謝りたいのだ。面と向かって。
喧嘩してばかりでろくに孝行もせずに亡くしてしまった。言いたい言葉は言えぬまま旅立たれてしまった。
後悔は波のようにゆっくりと、しかし確実に押し寄せてくる。
祖父が亡くなって半年以上経つが、未だに色々思い出してしまうのだ。
その度に私は自責の念にかられるのだ。
本当に伝えたいことが伝えられなかった、それが今も悔しくて堪らない
黄旦が出て肌の色が変わり、浮腫んでしまった手を恐る恐る触って祖父の最期を看取った日。言葉は喉まで出かかったのに、何故か言葉ではなく涙が溢れて声に出せなかった。
人がこんなに呆気なく死んでしまうなんて思わなかったのだ。
どこかでまた喧嘩できる。
減らず口を叩けると信じていたのだ。
今になって思うのだ。
本当に伝えたいことはその時伝えなければ後で後悔するのだと。
恋人でも、家族でも、親友でも、ペットでも。
「愛している」も「ありがとう」も「ごめんなさい」も全て。
いつか来たる最期の日に後悔しないように。
いつか来たる最期の日に涙が溢れて言葉が出てこなくなる前に。
私は伝えることが出来なかった。
それが今も悔しくて悔しくて堪らないのだ。
でも、もしあの日に戻れるなら。
もしあの時に戻れるのなら。
「おじいちゃん、ありがとう。そして、今までごめんなさい」