エコについて考えるようになったのは、世界にコロナウイルスが蔓延した頃だった。
コロナ禍でたくさんの人が亡くなり、世界中の人が次は我が身だと怯えた。
人々は発生源となる中国や、正しい処置を行なわれているか否かと政府を責め、咳をする人や人混みを不審な目で見た。

楽しかったはずの学生生活、やりたかったはずの夢はこんなはずではなかったのに、と静かに消えていった。
私たちの生活は以前と一変し、家で過ごす事が増えた。

記事が伝えていた、地球環境へコロナが及ぼした影響

家で多く過ごした生活は、自分の人生について向き合う時間となった。
ネガティヴに溢れる情報の中、私はある記事を見つけた。
そこには「コロナ禍で二酸化炭素量が減少」と書かれていた。人々が外出しなくなって、車や飛行機から出る排気ガスで二酸化炭素量が減ったのだ。

私はハッとした。この頃ずっと、いつ自宅待機が続くのか、いつマスクしなくてよくなるのか、いつ元の生活になるのか、人間達は自分のことで精一杯になりすぎていると。
私たちの住む地球にとって、人々がウイルスで死んでも、戦争で殺されても、仕事が嫌になっても、失恋しても全く関係のない話。それよりか皮肉なことに、人々の数が減少すれば、地球は救われるのだ。

むしろ、コロナ禍は地球にとってポジティブな出来事だった。
それでも、みんな死にたくはない。たとえ何も成し遂げられなくても、大事な人と好きなことをして過ごしていたい。それが人間の欲深いことなのだ。

世界的にSDGsの推奨や有名人のエコについての発信で、エコは流行りもののように人々に知られていった。エコバッグ、マイボトル、節水節電などたくさんのエコ活動がある。

私ひとりの取り組みも無駄ではない。エコへの心につなげたい

私は実際にコロナ禍になる前から、家畜の温室効果ガスや、牛が食べる穀物で飢餓が解消されることなどを知ってから、消費することは投票だと思い、なるべく肉や牛乳、卵の購入を控えている。肉は週に2回だけにして、魚や野菜中心の食事をしている。もちろんマイバッグ、マイボトルを持ち、歯ブラシなどはなるべくプラスチック製よりリサイクルの木製に変えた。

それでも、スーパーで何食わぬ顔をして肉をカゴに入れる人や、ペットボトルがポイ捨てされているのを目にする。それに自分1人だけが変わっても仕方ないのでは、微々たる変化でしかないと思う。
風力発電や、家畜を減少して価格高騰させソイミートやオーツミルクなどにするなど、大きく政策を変えない限り実際意味はないのかもしれない。

だが、本質は意味があるかないかではないと思う。「エゴの心」の消費が「エコ」に繋がるのだ。
コロナ禍でエゴの心は強まった。自分だけは助かりたい、自分だけは幸せになりたいなどと人を憎み妬み悲観的になった。まずはそのエゴを捨てることから始めるのが1番のエコだ。

そうすれば、自分ではない何かを思いやれるきっかけとなる。友人を助けても、家族のサポートをしても、ウイルスを責めなくても、それが誰にも気づかれなくても、意味がなくても、見返りがなくても。
そこからエコへの心へつながる一歩になる。