この変化はコロナ禍、今まで当たり前と思っていた生活や人との関わりが絶たれたあの時に始まった。
私が出会ったのは、人生で初めての「推し」。

コロナ禍で鬱憤が積もっていく日々、「推し」との出会いは突然だった

コロナ禍前、趣味は旅行とお酒を飲むことで、そのために仕事を頑張ってお金を貯めていた。
しかし、渦中で個人の趣味など簡単に壊れてしまった。いけなくなった旅行。頑張る目的もなくなり、そもそも量が減ってしまった仕事。
鬱憤はどんどん積もっていくのに、人と会うどころか、外出すらまともにできない。そんな日が続いていた。
もう家でできることは全てやった。それでも余る時間を使わなければならない。
今日は何をしようか。いつもだったら遊びまわっている夏の日差しを部屋の中で感じながら、YouTubeを見漁っていた。

その時は突然訪れた。
なんだかウキウキする音楽、煌びやかな映像、そしてなにより楽しそうに画面の中を走り回る人達に釘付けになった。
人生で初めての「推し」との出会いだった。なぜか彼らから目が離せなくなってしまった。
きっと閉鎖的な状況で、彼らの笑顔は特別に幸せを感じる輝きを持っていたからだろう。
私はその日から、彼らの音楽をたくさん聴いた。
メンバーのことが気になり調べた。

「会えない人を想っても意味がない」と思っていたのに目が離せない

グループの歴史を調べて、意外にも長いその活動期間に驚いたりした。ここで気づく。
これってもしかして「オタク」への入り口?私は人生でアイドルや歌手や俳優などに入れ込んだことはない。
「会えない人を想っても意味がない」
そう思っていたからだ。だからこそ、最初はそんな自分に違和感を抱き、ちょっと拒絶した。
でも何故か彼らを見ることをやめられない。もう「意味がない」などという理屈は超えて、彼らのことが、ただただ好きだった。

その中でも、とびきり笑顔が素敵で、いつも周りに笑いをもたらす太陽みたいなメンバーがいた。正直、一番人気ではなくて、いつも少し端にいる人。なぜか私はいつもその人を探していた。
オタクを受け入れた上で、さらにここで気づいた。
これが「推し」だ。

アイドルを好きになったことがない人は理解できないだろう。私もそうだったように。
絶対に会うこともできなければ、相手は自分のことなど存在すら知らない。そんな相手に「今日もちゃんと眠れているかな?」「美味しいご飯を食べたかな?」「今日この綺麗な空を同じようにみているかな?」と想いを馳せるのだ。
この「会えない人に対する愛」を持ち、私は本当にたくさんのことが変わった。

伝えられない想いに苦しくなっても、その想いはちゃんと昇華する

推しに出会うまで、基本的に愛に対して、「見返りがないのなら意味がない」と思っていた。
人を愛しても愛した分だけ、私にも愛が返ってきて欲しかった。それが叶わないなら意味がないと思った。意味がなければすぐに捨てた愛もある。
対して、推しに対する愛はどうか?
推しのことをすごく愛しているけれど、その「愛してる」は絶対に届かない。ステージから「ありがとう!愛してるよ!」とファンという巨大な塊に愛を叫ぶ推しを見ることはできるけど、個人的「愛してる」は貰えない。どんなに愛していたとしても。今までの理論だったら破綻してる。
でもなんだか構わないのだ。むしろ、私の想いなんぞどうでもよくて、ただただ1秒でも多く幸せでいて欲しいと思う。

それが苦しくなる時もある。せめてこの愛を伝えたいと思うからだ。
でも、その伝えたいという想いは、決して自分の外の世界に対して刃にはならない。苦しみはこんなふうに昇華する。
推しがこんなに素晴らしい人だから、私も良い人でいなきゃ、推しからいろんなことを教えてもらって心が満たされてるんだから、満たされてない人のために何かしなきゃ、そんな想いが自然と働く。
大袈裟に聞こえるかもしれないし、なんでもないことだけれど、電車で積極的に席を譲れるようになった。
処理する人を思い浮かべて、ゴミの分別をしっかりするようになった。
何でもない日に家族へプレゼントを買うようになった。
いつもより大きい声で"ありがとう"を言えるようになった。

推しからもらった愛を外側に循環させるサイクルが出来上がった

自分が損をしたり少し大変になるとしても、相手が喜んでくれることがまず嬉しいということに気づいた。私の中に、推しからもらった愛を外側に循環させるサイクルが出来上がった。
当初、意味がないと考えていた「見返りのない愛」。この愛を抱きしめることで、なんだか自分が変化して、自分が生きる人生を力いっぱい抱きしめられるようになった。"届かぬ人への愛"が私の人生や、私自身を愛する力を、そして自分自身を愛してるからこそ、他者をさらに愛する力をプレゼントしてくれた。
愛はあげたりもらったりするものだけじゃない。
あげたりもらったりできなくても、私の中に確かな尊い愛が存在すれば、それはいつも私を明るい道へと導いてくれる。
この愛は私を「愛に溢れた人間」に変えてくれたんだ。

推しへ。
愛しています。
たとえこの声が届かなくても。