19歳の冬。私は異国の地で、運命的な出会いをした。
人生で初めての一人暮らし。人生で初めて日本以外に住む。

東京で生まれ育ち、ネオン光る街が通学路だった私にとって、繁華街もラブホ街も、当たり前に見る生活の一部。
「恋人」以外の、グレーな関係性を知っていた私は、「付き合う」ことのトキメキを忘れてしまっていた。「私はちゃんと誰かと付き合って、ちゃんと愛して、結婚することはないだろう」と、心に決めていた。

私だけを愛してくれる人に出会い、歪んだ恋愛観は変わった

そんなとき、純粋に私だけを愛してくれる人に出会った。大恋愛だった。
ほとんど毎日デートして、一緒に過ごすことに一生懸命だった。
Aimerの“カタオモイ”が私たちのテーマソングで、この曲を聞きながらドライブしたり、人目を気にせずに愛を伝えあって、「一緒にいる私たち」に恋をしていた。

帰国日。
私が、日本に帰った後、彼は私を追いかけるように日本に遊びに来た。
その半年後、たった6か月間会えなかっただけなのに、飛行機に乗って私も会いに行った。
「結婚しよう」と言われて、「はい」と答えたのは、20歳の秋。
「私たちさえ一緒にいられれば……」幸せだった。
家族と離れ離れになっても、20年間生まれ育った国を離れても、それでも彼と一緒にいられれば、強くなれる気がした。
「結婚なんて私には向かない」と思っていた私が、「グレーな関係が居心地いい、人を好きになると面倒」と歪んだ恋愛観を持っていた私が、「苗字が変わってもいいかもしれない」と思った。
国際恋愛。そして約1万km離れた、遠距離恋愛。お互い学生の身分。
私たちの間の壁は、たった一つではなかったけれど、なぜか人生設計には、常に相手がいて、「○○歳になったら彼と○○したい」そう思っていた。

コロナ禍で計画は狂い、将来への不安は相手への不安に変わる

そして、新型コロナウイルスの時代が始まった。
会いたくても会えなくなった。触れたくても、触れなくなった。
私は、この大恋愛のために、18歳の頃から思い描いていた、「大学卒業後の大学院進学」を諦めた。
彼は、祖国を離れて、遠い遠い異国の地である日本の仕事を見つけた。
一緒に暮らすために、大学院進学をあきらめて就職したことは、当時、犠牲だとは思わなかった。

歯車が狂い始めたのは、日本の水際対策の影響で、彼が入国できなくなってから。
お互いの国で、お互い仕事を始めて、次いつ会えるのか、いつになったら一緒に暮らせるのか。
全ての見通しが立たなくなって、すれ違いばかり、喧嘩ばかりの日々が続いた。
将来への不安は、相手への不安になった。
将来を誓い合った相手ができてから、周りからかけられる言葉も変わった。
「結婚式には呼んでね」
「子供はハーフじゃん、かわいいんだろうな」
「妊娠にはタイムリミットがあるから、早く結婚しちゃえば」
私は、どんどん結婚したくなくなった。
子供は好きだけれど、自分で産みたいかと言われると、ちょっと違う気もした。
「結婚=出産、育児」という価値観に違和感を感じた。

どんな出会いにも別れは来る。そう思えば相手を大切にできる

付き合って3年の記念日は、ぎくしゃくしたままだった。
22歳の冬。周りを大いに巻き込んだ大恋愛にピリオドを打った。
大恋愛を終えて知ったこと、学んだこと。
「永遠の愛はない」
どんな出会い、どんな大恋愛にもいずれ別れが来る。
「いずれ別れてしまうかもしれない」
そう思って過ごすと、相手を大切にできる。
誰かの恋人、誰かの妻、誰かの母親になる前に、女性として、自分の人生をめいっぱい生きよう。
そして「愛してる」とさらっと毎日言えてしまう間は、「本当の愛」ではない。
最強の愛は家族愛と同性愛なのかもしれない。
子孫を残すっていう本能を超越して、愛せるのだから。
愛は、ときに憎しみを生み、笑顔を生み、人を良い方向にも悪い方向にも変えてしまう。
名前を忘れたくなるほど、辛く淡くて、愛してるが止まらない相手に1度出会えますように。