馬鹿なことだ。初めから、きっとその人のことを好きになるだろうと思っていた。
世間の多数派にとらわれない独特の雰囲気や、人生経験の豊かさを感じると、能うかぎり、その人がどう生きているのかを知りたいという欲望がわく。
私にとって彼は雲上人で、ひたすら憧れの対象だった。何度か、飲み会の後、帰りがけに話しかけ、同じ電車に乗った。少しの言葉やしぐさにも、その背後にある彼の人格を感じたくて、そして少しでも私への言葉がほしくて。彼は威厳があって周囲から敬われ、まだ若かった私にはある種の近づきがたさを感じるほどであったが、その実、人懐こく褒め上手な面もあり、そのギャップがたまらなかった。
別れの駅が近づいてきたとき、彼は「泊まり」を提案してくれて…
4年の歳月が流れ、別れの時が巡ってきた。その日の飲み会で、彼と最後に帰途を共にしようと、終電がなくなっても粘っていた。大きな駅まで出れば一夜を明かせる場所はあるはずだ。ようやく立ち上がった彼は酔っていて心なしか足元がおぼつかないようだった。
辿り着いた駅のホームを吹く風は冷たかった。この時間の電車は各駅停車でゆっくりと進むが、それでも1駅1駅、別れの駅が近づいてくる。彼は既婚者だしどうなるわけでもないが、どうせ最後だから想いを告げてしまおうか、など考えていた。
先に口を開いたのは彼のほうだった。彼は私の終電がないことに気づいていた。そして、もし嫌でなければ、泊まってもらっても構わない、一人暮らしなので何の問題もない、と提案してくれた。信じられないような気持ちで、一も二もなくこの言葉に縋った。
実のところ、駅に着くまでに財布や携帯の入ったポーチを紛失していた私だったので、彼としても終電後の町に1人にするのは心もとなく思ったのだろう、と考えた。
互いの部屋を行き来するようになった時、彼女の存在について語った彼
2人、電車を降りる。夢の中を歩いているような心地だった。おぼろげな記憶では、彼と出会って間もない頃、彼が家族と別居状態になっているという噂を耳にした気もする。
部屋に着くと、彼はお酒とおつまみを出してくれた。私はこのまま夜を明かすことを覚悟していたが、小一時間ほどで彼は私にシャワーを勧め、床を用意してくれた。
彼は褥を共にするよう誘い、私は応じた。
ただ酔った勢いなのだろうとその時は思っていたのだが、いつしか我々は互いの部屋を行き来するようになった。初めて私の家に来た時だったか、彼は、久し振りに仕事終わりに恋人のもとへ駆けつける気分を味わったと言い、どのくらい振りかと訊くと、十数年来だという答えだった。
初夏の週末、彼は私の部屋に2泊していた。2日目、夕方の別行動のあと、商店街の外れの神社で合流した。提灯が揺れる宵の口。彼の選んだ小さな居酒屋に入り、カウンターに並ぶ。彼は酒が進み、私はお腹が満ちた頃、話題は、我々の関係のことに移っていた。
彼は、部屋に来ていて女性の影を感じることはないかと問い、私の表情の変化を覗き込むように見た。「……いや、気づきませんでした」と私。彼は、結婚しようと思って長く付き合っている女性がいることを語った。「あなたは鈍いから、気づいてないかもしれないと思って」
かろうじて絞りだした別れ話。人間の愚かさを知ってしまった恋愛
こんなに屈辱的なことがあるだろうか。だったらなぜ、ベッドに誘ったのか。この数か月は何だったのか。
そう問いただそうにも、この会話はカウンターの向こうへも聞こえているに違いない。既に、私が手ひどく振られ、彼に彼女がいることに気づかなかった鈍い女と断じられたのを聞かれているだろう。この上、取り乱すのは恥の上塗りでしかない。
「じゃあ、こんなことしている場合じゃない、じゃないですか」
かろうじて絞り出した。別れ話を始めようとした私に、彼は、今さら何をショックを受けているのか、そもそも既婚者だとわかっていたはずなのに、と嗤ったが、ともかく別れるに越したことはないのは明白だった。
彼に将来を約した彼女がいるのもショックだったが、それ以上に、彼の愛情を頼りに思う私の気持ちに対する冷たさ、話す時間は足かけ3日間あった中でわざわざ私が激することを予防したかのようなタイミング、普通の結婚を棄ててまで彼を信じ長年連れ添ってきたのであろう彼女さんへの裏切りに、言葉がなかった。多かれ少なかれ、人を知るとはそういうことなのだろう。私にも弱さや狡さ、醜さはある。
結局、奇妙にも、期日を決めて別れるということになった。実際にはその期日は数か月延期された。
馬鹿なことだ。この恋愛を経て、少しは自分の、そして人間がもちうる愚かさを知って、賢くなったかもしれない。