父方の祖母が認知症になったのは、私が小学生の時だった。
初めは信じられなかったが、一晩行方不明になった後に自宅から五キロ離れた祖母の地元で保護されたのが決定打となり、施設への入居が決まった事でやっと実感した。

入居してすぐの頃は、接していても普段の祖母と変わらないように感じていたが、症状が進行していくうちに祖母の記憶が、言葉が、日常生活を送るのに必要な身体機能が少しずつ失われていくのがわかった。

やがてその全てを失って寝たきりになった祖母を見て、私はふと思った。
そういえば、祖母は話せる間は私の名前だけは間違えなかった。自分の息子である父の名前でさえも、兄である叔父の名前と間違えてしまっていたのに。
どうして祖母がより覚えてくれていたのは、孫の私だったのだろう。

祖母の認知症をきっかけに記憶について考える

私にとっての祖母は、お金持ちが膝で抱いている猫のようなイメージの人だった。
なぜそんなイメージを抱いていたかというと、声が猫の鳴き声に似ていたというのもあるけど、おとなしくてどこか気品のある人のように感じていたからだと思う。

祖母は手芸が得意な人だった。おジャ魔女どれみのキャラがプリントされたお気に入りの靴下に穴を開けてしまった時も、綺麗に縫って直してくれた。
「新しいのを買ってあげるから」と父は言ったけれど、「新品よりも好きなキャラだからこれがいい」と泣きながら訴えるほど当時は気に入ってたものだったから、よく覚えている。もう履けなくなってしまった靴下が、糸と針ですいすいと直されていく様子は、まるで魔法のように見えたものだ。

そんなふうに、祖母に関する記憶は断片的なものだった。父方の祖父母の家に遊びに行くのは長期休暇に合わせて半年に一回くらいだったし、祖父母が何度も会いに来てくれたり、何度も気軽に祖父母の家に遊びに行けたのは、精々、幼稚園に入園するよりも前の本当に幼い頃くらいだったから。

認知症が進行して寝たきりになった祖母の姿を初めて見て以来、私は色々と考えるようになった。
認知症は恐ろしい。だって、忘れたくなくても忘れてしまうなんて嫌だ。記憶だけじゃない。生きるために必要な身体機能のことすら忘れてしまうなんて。最期には呼吸の仕方すら忘れてしまうんじゃないか……祖母の認知症の進行を見ていると、そう思わせるものがあった。

でもいつからか、私はこうも考えるようになった。
認知症という病気の症状はそれが顕著なだけであって、人はもともと忘れてしまう生き物だ。昔の記憶は他の記憶にどんどん上書きされて失われていく。きっと脳には許容量があって、それを超えてしまうから全ての記録を保存することはできない。

覚えておきたいこと、忘れたくないこと、全部覚えておければいいのになあと思ったことは何回もある。ただ、失われた記憶でも、何かトリガーがあれば思い出せることもある。だからきっと頭のどこかには、記憶のかけらだけでもちゃんと残っているのだと思う。
そんな事を思うのは、実際に忘れてしまっていた記憶がちょっとしたことから蘇った事があったから。

祖母の手編みのセーターを見ても何も思い出せなかったけれど

ある時、大掃除をした時に子ども服の入った袋の中から、祖母が編んだセーターが出てきた。
周りの服のサイズから考えるに、サイズは100くらいだと思う。母はそれを見つけると、「懐かしい〜!お義母さんからもらったやつ!」と袋の中から取り出した。ピンクの毛糸とエメラルドグリーンの毛糸で編まれた小さなセーター。

「凝ってるねえ。見て、水玉模様みたいに編まれてる」
母は両手で広げて見せた。母の言った通り、セーターにはところどころ水玉のように網目模様が作られていた。母曰く、「普通に編むより難しい」らしい。
それから出てきたのはポンポンがついたピンクと白のボーダーの毛糸の帽子。それから、毛糸で編まれた別の手作りのセーターと手袋。他にも遊びに行くたびにもらった服が何着も出てきた。
ピンク色の服が多かったのは、きっと私がピンクが好きだったことを知っていたから。

「これは◯◯に出かけた時のやつで〜」
「これはたしか高いやつ!百貨店にあるようなブランドの〜」
袋の中から出てくる服を見るたびに、母はその服にまつわるエピソードを語った。よくそこまで覚えているなあと思うくらいだった。
小さな服の一つを広げて見ても、私は母と違って何も思い出せなかった。
でも、なぜ祖母が他のことを忘れてしまっても私のことを覚えていてくれたか。その答えはもう出ていた。

祖母から受けた愛の記憶は、私の中に残り続ける

あるじゃないか。こんなにもたくさん。これだけでも充分すぎるほどある。

私はあまりあるほどの記憶のかけらたちを抱きしめた。
愛だ。私のことを祖母はこんなにも愛してくれていたからだ。
どうして忘れてしまっていたのだろうと思った。それから、取りこぼしてきたものの大きさを実感した。

遊びに行くのは半年に一度くらいだったけれど、楽しみに待っていてくれたことはこれだけでも伝わってくる。きっと、自分の選んだ服や編んだ服を身につけて喜ぶ孫の姿を思い浮かべながら用意していてくれたのだろう。

それに大人になった今だからわかる。編み物の難しさ。時間も手間もかかる。それも作るものがセーターとなれば、子ども用のサイズにしてもかなりの時間と労力がかかる。編み物は、それをかけられるほどの相手への愛がなきゃ出来ないものだ。

コロナ禍で面会不可になり、再び会えたのは祖母が亡くなってからだった。
久しぶりに会った祖母は以前よりも痩せ細って小さくなったように見えたけど、まるで眠っているように穏やかな表情をしていた。

柩に横たわる祖母のそばには折り鶴を入れた。折る前にメッセージを書いた特別製だ。
失われていた記憶から拾い上げた愛を、今、あなたに還そう。
たくさん愛してくれてありがとう。
もしもいつか忘れてしまう時が来たとしても、あなたからもらったものを見るたびに記憶は何度でもよみがえることでしょう。
だから私はあなたと過ごした日々を、あなたのことを忘れない。