考えれば考えるほど沼に沈んで息ができなくなるし、私のうすっぺらな経験上、そういった深く長い思考の余地がある問題は、往々にして「ただ一つの正解」を持たない。
子を持つということも、私にとってはそういった問題のひとつだ。

選択肢を絞る時期ではないけど、「産む」という選択をするならば

24歳、社会人3年目。2年交際している恋人がいる。
今の恋人と人生を共にしていくのだろうとぼんやり考えているけれど、人生の先輩方は、まだまだ選択肢を絞るときではないと口を揃える。人生の行く先を案じるには尚早だという人もいる。
でも生物学的なタイムリミットを考えれば、考えるのに早すぎるということはないだろう。

大学時代の友人の1人は、在学中に子どもを授かって休学し、1年遅れて卒業した。その子はもう4歳になり、今年妹が生まれた。
入社後すぐに結婚した年上の同期は、仕事が落ち着きを見せたため、そろそろ子どもを、と検査を受けたところ、機能として不可能かもしれないとわかったらしい。
もう2年くらい私を担当してくれている美容師さんは、29歳で2人の子どもを持ち、マイホームを建てようとしている。
彼が自らの人生について語った一節がずっと心に残っている。

「子どもを持つのが早ければ、子どもが巣立っていくのも早い。自分の若い時間を子どもに割くことにはなるけれど、元気なうちに夫婦水入らずの時間を持てるでしょ」

人生を考えると、必ず「子ども」という問いが重くのしかかる

仕事も生活もある程度自分で回せるようになって、ようやく社会の構成員になれたと感じるようになったここ1年ほど、ふとしたときに自分のライフプランを検討せずにいられない。
「社会」に取り込まれたことに安心するのと同時に、進むべき方向の定まらなさに不安を感じているようだ。その検討にはいつも必ず「子どもを持つのか、持つならいつなのか」という問いが重くのしかかる。

私は妊娠・出産に対して、漠然とした恐怖心を抱いている。
自分の体で10ヶ月間、別の人間が育つ。私から養分を吸い取って、みるみる大きくなっていき、ついに私の体から脱出して活動範囲を広げたそれは、更に私を苛むのだろう。
異性の同期は言っていた。
「どれだけ代わってあげたいと思っても、それは不可能だから」
気楽なものだ、と思わずにいられない。

どれだけ男女の平等を謳ったって、出産の問題は女の人生について回る。仕事をバリバリがんばりたい、時間もお金も自分のために使いたい、パートナーとの暮らしを大切にしたい。どれを人生の指針に掲げても、女性は常に(時に自分自身から)問われる。
「子どもは?」

最近は人々の間にハラスメントやプライバシーの意識が育ち、「子どもは?」は禁句になりつつあるけれど、他者からその質問をされなくなっても、生物学的な機能を放棄すること、もっと強い言葉を使うなら種としての義務を放棄することについて、なんとなく自分に対する言い訳を探してしまう。
いっそ「あなたは子どもは持てません」と誰かに言い切ってもらったほうが、いくぶん気が楽かもしれないとすら思ってしまう。

どんな選択も決断を積み重ねた結果。考える時間は無駄じゃない

子どもがいる人たちは、その暮らしの喜びを語る。私も子どもは大好きだけれど、やっぱりネガティブな部分について考えを巡らせてしまう。
子どものいる生活を知らない私は、客観的に捕捉可能な要素だけで、勝手にそれを恐れているのだ。いつもそう。私はリスクばかりを追いかける小心者だ。

正解がないのはわかっている。わかっていても、いや、わかっているからこそ、いろいろな人の「子どもを持つという選択」について知見を集めて、吟味して、自分にとって違和感の少ないロールモデルを探しつづけている。

10年後、私が子どもも、パートナーも持たずに生きていたとしても、今こうしてああでもないこうでもないと考えている時間は、決して無駄にはならないと確信している。
これからの自分がどんな決断を積み重ねて人生を形作っていくのか、楽しみだ。