いつでも前向きで、大抵のことは叶えてくれる両親が大好きだった
両親にとって、予定外に授かった子どもだった私。姉とは11、歳が離れている。
全くタイプの違う姉妹だった私たちを、両親はひとりっ子を2人育てたみたいで楽しかったとよく言っていた。
姉はイメルダ夫人ばりに衣装持ち(当然ながら靴も)で、私にとっても両親にとってもお姫様だった。
ほぼ息子扱いの私は、父がいつもどこへでも連れて行ってくれたのをよく覚えている。
夏休みにはかなりの頻度でプールに連れて行ってくれたし、流れるプールにふよふよ流されていくだけの私の横を、暑いだろうにプールサイドをひたすら歩いて一日中ついてきてくれるような、そんな子ども時代だった。
警察のお世話にならなければ、自分の裁量で好きなことをやりなさいと、適度に放任主義で。でも望めばいつでも前向きに考えて、そして大抵のことは叶えてくれる両親が大好きだった。だから反抗期もなかったし、反抗する気もそもそも起きなかった。
そして私たち姉妹は揃ってパパっ子である。だって、夜9時過ぎにプリンが食べたいと何の気なしにつぶやいた娘のために、一からプリンを作ってくれるような自慢のパパなのだ。そしてママも、料理上手で、酒好きでいつも酔っ払っているくせに、いつだって一番私たちを心配してくれている。
就職して生活スタイルが一変。「まずい」と一人暮らしを決意
そんな2人に蝶よ花よと育てられた結果、私は22歳で一人暮らしを始めるまで、本当に家で何もしたことがなかった。ご飯はいつでも上げ膳据え膳で、食後に何も言わずともコーヒーが出てくる。洗濯物を取り込んだのなんて、おそらく両手で数えられるほどだ。
たまに食器を自分で下げただけで、ありがとうと言ってくれる始末。ちなみにシンクまでの距離はせいぜい3歩である。
とんでもなく甘やかされている自覚はあったものの、就職してから生活スタイルが一変し、帰宅が深夜になることも多く、そのままずるずる何もやらないまま日々を過ごしていた。
翌年の夏、仕事にも慣れて生活のリズムも整ってきた頃、これが続くのはまずいと、一人暮らしを決意。実家にいたおかげで貯められた50万を握り締め、不動産屋で物件をほぼ即決。2週間後に引越しが決まった。
今の主人と当時付き合って、もうすぐ7年経とうとしていた頃である。てっきりすぐに一緒に住んでくれると思っていたのに、そう上手くはいかず。引越し先からの方が職場が近かった彼は、休みの日だけ実家に帰る逆通い妻のようになっていた。ずるずると半同棲状態が続いた。
今考えると何だかちょっと腹立たしいが、初の一人暮らしに浮かれ切っていたので、苛立ちなんてすぐに忘れた。
さて問題は家事である。実家で何もやってこなかった私は、広い部屋で見慣れない天井を見上げて思ったのだ。1人っきりだとマジでやることない。
ともすれば、私がやるべきことなんて超出来立てほやほやだった新築のこの家を綺麗に保ち、彼に美味しいご飯を食べさせてあげること、それだけである。
何度でも言おう、この時の私は浮かれポンチだったのだ。
小さくなったガラスの靴を、新品のスニーカーに変えてくれた彼
毎日作り置きのおかずをタッパーにつめ、掃除をし、洗濯をした。気が向いた時は彼にお弁当を持たせて見送った。
仕事も忙しかったけれど、勉強や仕事以外のことで、全て自分自身で選んで決めるというのは新鮮で楽しかった。自分のために面倒な何かをしてあげるのは、存外良いものであることにこの時気づいたのだ。
何ヶ月かして新居に遊びに来た姉は、思ったよりもちゃんと生活してて驚いたと笑った。失礼な姉である。
そうしているうちに、彼も正式に越してきて、2人での生活が始まった。自分のためにやってきたこと、想像よりも楽しく出来たことを、今度は彼のためにしてあげたいと思った。
時には2人でキッチンに立って、学生の時のように笑い合った。彼はパパと違ってハンバーグを焼くのが下手だ。プリンだって作ってくれないし、プールには自分が先に飛び込むタイプ。でもとっても美味しいタコライスを作ってくれる。プリンが食べたいときはコンビニまで並んで歩けるし、水鉄砲の奪い合いではしゃいでもいい。同じ歩幅で歩ける彼のことを、私は愛している。
両親は私のフェアリーゴッドマザー(魔法使い)だった。いつだって無償の愛で、私のためのガラスの靴とドレスを用意してくれていた。
でも、一方的にその愛を受け取るだけだった私が大人になって、ガラスの靴では速く走れないと気づいた時。今度は私が誰かに無償の愛を与える側に立つことで、小さくなったガラスの靴を新品のスニーカーに変えてくれたのは彼だ。
不恰好でもいい。転んで泥だらけのドレスでも、彼も隣で笑っているのだから。人より優れた自分でなくてもいい。2人で手を取り合って立ち上がれるのだから。
彼の手をとって真実の愛を知った時、私は村人Cからシンデレラになった。