出産するまでが大変なのに、その先も続くシビアな話
私は「出産」するのだろうかと、ここ1年、とても考えるようになった。
友人が妊娠、出産をし「母」になった。私は何も変わらず、仕事をしている。
私は何も変わっていないのに、友人は人生のライフステージをどんどん駆け上がっていく。私は取り残された気がした。
ここ1年というのは、高校時代に仲の良かった友人のうち2人が立て続けに出産したからだ。1人は昨年の夏に出産し、もう1人の友人は最近出産した。
2人と会うと、自ずと話題は子供の話になる。私は、わからないことの連続で置いてかれそうになる。
子供の話は楽しい話もあるけど、シビアな話も多い。「2人目は何歳差で欲しいから、この時に妊活をしなきゃ」とか「保育園に入れなかった」「保育園に入れそうにないから引っ越しを考えている」とか、私の中では現実味のない話が現実の会話でされているのだ。
「出産」するまでが大変なのに、その先ももっと考えないといけないことがたくさんあるのかと驚いた。私は話を聞いているだけでキャパオーバーしてしまいそうだった。
自分自身の人生を生きるので精一杯の私からしたら、もう1人の人間の人生を考えるなんてできるのだろうか……と悩んでしまった。
出産という奇跡を、私は体験することができるのだろうか
「出産する」ということは奇跡だと思う。
昨今、子供が欲しいのにできないから、お金をかけて妊活をする人もいる。妊娠しても、流産することもある。妊娠できる期間は人生の中で生理が来る時までと有限だ。有限だからこそ「卵子凍結」という選択肢もあると聞いた。
そんな奇跡を、私は体験することができるのだろうかと考えてしまう。仮にできたとしても、私の人生にプラスして子供の人生について考えるなんて、今の私は未熟なのか想像がつかない。
「子供が欲しい」なんて、とてもじゃないけど軽々しくは言えない。1人の人間を産むことができる可能性のある女性に生まれたけど、私の人生の優先順位にはどうしても低くついてしまうのだ。
今はパートナーはいないけど、もし「子供が欲しい」なんて言われたら、私はどう返答できるのだろうか。私は「出産」という奇跡に向けて必死になるのだろうか。パートナーとの子供が欲しいなんて、思うのだろうか。今もその答えは出せない。
少子化が叫ばれているのに、保育園に入ることができない現実。「保育所落ちた日本死ね」なんてワードが世の中を駆け巡ったのに、いまだに現実は変わらない。出産しやすく、子育てしやすい環境ではないことは当事者でなくともわかっている。
私は「母」になれるのだろうか。なったとしても「ならなきゃよかった」なんて最低なことは思わないだろうか。
こんなことを思ってしまう時点で、私は向いていないのかもしれない。
周りの人を大切にすることが、今の私にできること
ただ1つ思うのは、人は財産だと思う。仕事で、プライベートで、私達が生きていく上で人との関わりは避けられない。
1人で過ごす時間に灯る電球だって、電力を安定供給している人がいるから明かりが灯る。お昼ご飯をコンビニで買う時でも、接客してくれる店員さんがいて、商品を考えている人、作ってくれる人、それを運んでくれる人がいる。
私たちには人が必要不可欠である。その人を生み出すのは「出産」でしかないのだ。どうか「生み育てやすい環境」は整って欲しい。
私は「出産」するのだろうか。その奇跡を体験できてもできなくても、私は人に支えられていることを忘れないようにしていきたい。周りの人を大切にできることが、今の私にできることだと思っている。
私の1日に、何人もの人が関わってくれているのだろう。見えないところで、想像もできない人に支えられているのだ。そんなことを考えられる社会になることが、「出産」しやすい社会なのかもしれない。
そんな社会を作っていく一歩は、誰にでもできることなのではないだろうか。どうか今「出産」をして、子供を生み育てている人たちも、その選択をしなかった人たちも、幸せになって欲しいと願っている。