つくづく思う、「ママ、ごめんね。孫を見せてあげられないかもしれないよ」と。

24歳になり、社会人2年目になった。周りの友達が結婚し始めた。一部の友達は、付き合っている人と結婚を考え始めたらしい。親戚の集まりにも、いとこの子どもが増えてきた。アパートの隣の部屋に、子ども連れの家族が引っ越してきた。
兄が2年お付き合いしてきた彼女と結婚した。母は、孫が見られると喜んでいた。
みんないずれ結婚し、子どもを産み、家族を作るのだろう。

愛する人と子どもを持てたら、どれだけ幸せなのかな。想像してみるけれど、子どもの幸せを考えたら、私にはその権利がないように感じる。
子どもを幸せにしてあげられる自信がない。ママが責任をもつからね、なんて無責任なことは言えない。
なぜなら、私はレズビアンだから。

同性のパートナーとは「結婚」も「子ども」も重い言葉

私はこの国で結婚できないから。二人の母親がいる家庭など、きっと普通じゃないから。
2年以上付き合っている同性のパートナーとは「結婚」という言葉はでてこないし、「子ども」という言葉もNGワードのように重たい言葉だ。
そもそも子どもを授かることは、とても責任重大なことで、軽い気持ちでそんな決断はできない。それでも、ひとつの命を、一人の人生を育て、照らしていくということは、とても尊いことだ。言葉にできないような感動や、自分のことのように嬉しい出来事がたくさんあるのだろう。

私がもしパートナーと子どもをもったら、絶対に、試練の方が多いとわかっている。外で手も繋げない私たちが、ベビーカーを押して歩いていたら、人目が気になるに違いない。
子どもの物心がついたときに、周りの友達のお父さんやお母さんを見て、自分の家庭は変なのかと疑問に思うだろう。私たちが原因で、いじめられるかもしれない。友達ができないかもしれない。

二人の母親特集を組まれるほど、社会にとってはまだ普通ではない

そもそも、婚姻関係のない二人の母親なんて、どちらも法的な母親にはなれないだろう。
正直なところ、自分が親になった場合、どっちが母親になるのか、母親でない方は何という関係にあたるのか、そんな法的なことなど、気になっても調べたことすらない。調べても期待する回答など得られないとわかっているから。
婚姻関係とか、親子関係とか、法的なものだけが大事なわけではない。だが、感情や精神的な繋がりだけではどうにもならないこともあるし、子どもを守らないといけない責任が伴う以上、家族であると証明しなければいけない状況だってでてくるかもしれない。

以前、テレビでレズビアンカップルの母親の特集を見た。本人たちはもちろん、その子どもや親、精子提供をした男性まで、周囲の人々のインタビューが取り上げられていた。
子どもを産もうと決意したときの気持ち、子供を産んだときの感動、精子提供をしてくれた実の父親と家族の関わり方、なぜ母親が二人なのか子どもに説明するまでの経緯など、すべてがリアルに描かれていた。
今では同性カップルが子どもを産み、育てるために動いている団体や、支えてくれる人、理解してくれる人はこんなにいるんだ。そう思った一方で、特集されるほど、社会にとってはまだ普通ではないのだと、より痛感した。やっぱりまだ、母親が二人なんておかしい社会なんだな、と。

社会も私も悪くない。ただマイノリティなだけ、まだダメなだけ

でも、社会は悪くない。
生物学的に、人間は異性間で子どもを作るものだから。これまで男女の結婚が当たり前だったから。同性同士のカップルの親なんて、上の世代の方にとっては、まだまだ受け入れがたいのもわかる。
だからと言って、私が悪いわけでもない。ただマイノリティなだけ。
私は今のパートナーといられれば幸せだし、普通に二人で暮らしているだけなら誰にも迷惑はかけていない……と思う。
それでも、そこに子どもがいて、何気ない日常を楽しく、穏やかに過ごせたらな、と思ってしまう自分もいる。

誰も悪くない。
誰も悪くないからこそ、消化しきれない虚しさがある。
だから、生まれた時代が悪いんだと言い聞かせる。まだ、ダメなだけ。社会は確実に変わってきている。
きっと20年後には当たり前のように、同性のパートナー同士で、子どもを持てる社会になっている。
私たちの、まだ存在もしていない子どもに、いつか出会えるのだろうか。そしてその子に、明るい未来が訪れるといいなぁと心から思う。