幼稚園の私を構成していたものは、全て女の子の象徴的アイテム

ピンクは私が昔、「女の子」をろ過する過程において、最初に排斥されたものだった。

幼稚園に通っていたころの私は、まじりっけのない女の子で、電車のおもちゃよりもぬいぐるみで遊び、虫よりもお花を探しまわり、戦隊ヒーローよりも魔法少女が好きだった。
所有する服はスカートかワンピースが8割を占め、和式トイレを使うと床についてしまう程長い髪の毛は、リボンのヘアゴムで二つに結われていた。
当時の私を構成していたものは、全て女の子の象徴的アイテムであった。ピンクもまた、女の子として生きる私の世界に無くてはならないものだった。

しかし小学2年生の夏、私の世界は一変した。胸の下まであった髪を、喉仏の上にまで短く切ったのである。
頭が軽い上に、走り回っても飛び跳ねても、暴れる髪に顔を攻撃されない心地良さに感動した。しかしそれ以上に、鏡に映ったショートヘアの自分を見て強い幸福感を覚えた。
周りの友人が皆ロングヘアだった為、自分が特別になれた気がしたことが嬉しかったのだ。
今思うと、自分の外見を認識するようになったのは、この日からだったように思う。

男の子に間違われて渡された青い剣のバルーン。私はそれが欲しかった

何かが変わる音を聞いたのは、このすぐ後のことであった。
その夜に家族といったお祭で、くじ引き屋台の店主は私に男の子用の景品を渡してきたのである。青い剣のバルーンだった。
「あ、女の子なんです」と笑う母に、「すまんすまん。男の子やと思った」と店主は笑いながら女の子用の景品を差し出した。ピンク色をした犬のバルーン。
「青いほうがいい」
私はこの日初めてピンクを選ばなかった。抱きかかえた青の剣のおもちゃと、昨日よりも涼しい首元に胸が弾んでいた。
結果として私はその月の間に三回、男の子に間違われた。それに伴い私は「男の子っぽい」ということを自身のアイデンティティとして確立させてしまった。

それからの変化は急速で、ピンクが溢れる世界の少女はピンクを避けるようになった。ピンクを纏うことで男の子らしさが薄まることが怖かったのだ。
ピンクの服を拒否し、髪を切ったことでいらなくなったリボンは引き出しの奥にしまわれ、兄のおさがりのカバンを異様に欲しがった。ハートの刺繍があてがわれたサーモンピンクのランドセルを背負う度、入学時の自分を恨んだ。

このように女の子をろ過し続けていたら、高学年に上がるころにはイチゴ味のお菓子さえ選ばなくなっていた。時折ピンク色の女の子全開のアイテムを身に着けさせたそうなそぶりを見せる母に苛立ちを覚えたりもした。
それでも私は、自分の個性を一つ保有できていることに安心感と満足感を抱いていたのだ。

アイデンティティの構築材料だった男の子っぽさに訪れた終わり

可愛いよりも、かっこいいと言われることが嬉しかった。特技も目立つ個性も何もない私でも、「これが私なんだ」と自分の形を保つことができたのは、唯一ピンクを否定し、女の子をろ過しているときだけだった。
しかし男の子っぽさを求めることは、性格の問題でも性自認の問題でもなく、単にアイデンティティの構築材料でしかなかったことに、当時の私は気が付けずに、症状はどんどん悪化していった。

中学生に上がると、再び私の世界に何かが変わる音が響いた。
取り込むのではなく、切り捨てることで作り上げてきたアイデンティティはやはり偽物だったようで、その音を聞いた日から私の世界は徐々に崩壊を始める。これまでとは違い自分の意志で「女の子」を拒絶することは不可能になった。

第二次成長期の訪れである。

カップ付きのキャミソールを拒み、日焼けを気にすることもせず、胸を毎晩押しつぶし、流行りのピンクの色付きリップに興味がないことをアピールしても、私の中の男の子は薄まっていく。
基本的に母が作るごはんに対して文句やわがままを言わない私が、初潮を迎えてしまった日のピンク色の赤飯だけは頑なに拒んだ。
どれだけ抗っても、ろ過したはずの女の子が逆流してくる。その度に自分の輪郭がぼやけていった。

消えていく自分を守るためにも、最後までピンクだけは排除を続けた

私の中の女の子は社会的にも濃度を増していった。元々自己主張が強くない人間であるから、思春期の少女特有の集団意識に逆らえるはずもなく、休みの日にはプリクラを取り、男の子の話をして、遂にはおそろいのスカートも買うようになった。
それでも尚、女の子を薄めたくて、最後までピンクだけは徹底的な排除を続けた。女の子に飲み込まれ、消えていく自分を守るために。

高校生の私は、もう生物学上、立派な女だった。母に打診してみるもスラックスは却下され、チェックのスカートにリボンを身に着けて春を迎えた。
このころには抵抗力も減少し、似合うからと母に勧められて、渋々髪も伸ばし始めた。オシャレや化粧に無頓着でいることで、これまで築いてきたアイデンティティのようなものに辛うじて縋っていた。
自分を失った代わりに、自分への膨大な嫌悪感が誕生し、存在価値を見失った。それでもやはりピンクには触れられなかった。
しかしこれはピンクへの嫌悪ではなく、反対に無価値な自分がピンクにすら受容してもらえないのではないかという恐怖からくる拒絶であったように思う。

「あなた何でも似合うで」。この一言で何かが変わる音がした

ある日、一人の友達とショッピングモールに寄り道した。その子はおしゃれで可愛くて、とにかくキラキラしているような子だった。
いつものようにプリクラを撮り、タピオカを飲んだ。しばらく雑談した後、その子が服を見たいというので付いていった。
普段入らない空間にムズムズしていると突然、どんな服が好きかと聞かれた。特にないけど女の子らしいのは苦手と答える私に、彼女は「着てみたらいいやん」と、手に持っていたピンク色のワンピースを私に重ねた。
「うん、めっちゃ良い。てか、あなた何でも似合うで」
何かが変わる音がした。
これだけで良かったのだ。きっとこの一言だけで十分だったのだ。

今日の私は、淡い色のジーンズにパステルピンクのニットを着て大学に向かった。瞼にはピンクのラメを乗せ、外からは見えない靴下まで色を揃えた。
心地よい風に乗せられて、薄くピンクに色づいた桜の花びらが舞う。合流した友達が「今日めっちゃピンクやな。ええやんええやん」と褒めてくれた。
ピンク色のマスクでにやつきを隠しながら私は返事する。
「ピンクは春の色やからな」