生来の性格、特性もあり、片付けが大の苦手である。職場のデスクも書類や自分の研究資料が山のように積まれている。
それでも自身ですごいなぁと思っているのは、倒れないように高く積むことができることと、どこにあるかを把握してるということだ。
この春異動し、新しいデスクになったが、たまたま来たお世話になっている別の事業所の上司からは「1ヶ月よく保った」と、褒められてるのか、呆れられてるのか、よくわからない言葉をかけられた。
いつか使うのではないか。物を捨てる決断がとにかくできない
とにかく物を捨てるという決断ができない。いつか使うのではないか、この考えに尽きる。大抵使うことはないのは分かっているのだが、捨てようと思うだけで、気持ちがしんどくなる。
みんなの共有のものでも同様で、職場の片付け名人(なんでも捨てちゃう名人)とペアで倉庫の大掃除をしていた時は大変だった。長くいる私に、いる物といらない物を分けて欲しいというのだ。
長くいたとて、私は捨てたくないし、向こうは捨てたそうにしている。次第に、どんどんと彼女が自分で捨てていくのを私はただ、いたたまれない気持ちで追随するしかなかった。職場の大掃除や模様替えの類は、本当にすす払い担当にしてもらいたい。
片付けられない私と片付けたい両親は、衝突を繰り返している
家でも同様で、こんな体たらくの私と両親は、片付けを巡って衝突を繰り返している。
とにかく片付けられない私と自分のルールに則って片付けたい両親。そんな両親との長年の衝突の中で定着したことといえば、物は床に置かないこと、なんとなく怒られそうなラインを見極めて動くこと、見た目を整えてごまかすことだ。根本の片付けの仕方を覚えてるとかではなく、事態は今もなお何も解決していない。
先日、夕食後に「明日、机捨てるから」と母から宣告された。
確かに机捨てると言ってたけど……と、夜の10時から片付けを始めたわけだが、見た目を整えるという術はなんとなく身についてるので、その時はそれで事なきを得て、体裁を整えた。
体裁は整ったが、棚がわりの机が無くなり、そこにあったものが置けなくなってしまった。ここで次に両親の矛先は、学生時代の資料や参考書等が入っている棚に向いた。そこに、机に置いてあったものを入れればいいと言うのだ。
5年ほど手をつけてなかった魔境。整頓もされてない。片付けをするには、強敵すぎるし、億劫すぎる。
自分が頑張ったこと、努力したことが全部無になる感じがキツい
あまりにも自分で動けない私にとうとう業を煮やした両親が、片付けをそちらのルールに則って指示し始めたのだ。行政代執行だ。
一応仕事に関連しそうなものは残しておこう、それ以外は思い切って捨てようと自分なりにはだいぶ踏み切った決断をした。
ただ、それでも父は、数年も見てないんだからと、さらに捨てる方向で私に話をする。思い切ったのに、それでも足りないのだ。父の言葉尻に強まりを感じ、私は「確かに見てないね」と言い聞かせて、踏ん切りがつかないままさらに捨てることにした。
この時点でしんどさが極まっている。あまりにも無理やりすぎているのは、明白だった。物を捨てるってこんなにキツいのか。誰だよ、断捨離で心が軽くなるって言った奴。
ふと1人になって、捨てざるを得なかった資料や参考書が学生時代に自分が頑張ったこと、努力したことで、それが全部無になる感じがすること。そしてその価値を両親に受け入れてもらえなかったと思ってしまったこと。このあたりがしんどさ、キツさの原因なのではと考えた。
せめてこの価値を分かち合ってくれたらと思うが、甘い考えなのだろう。
次はどこに矛先が向くのだろうか。心を痛めながらの断捨離は続くのか。