自分がない私が頼りにするのは感情。ワクワクするかどうか

意見がないことがコンプレックスだった。
将来の夢はおろか、次の食事で何を食べたいのかすら分からない。
そんな、自分がない私でも、
「自分の人生は自分でデザインしたい」
という思いだけは持っていた。

では、どうデザインする?
その先の意見がない私が頼りにするのは、いつだって感情だった。
進路や恋愛関係、次読む本、あらゆる行動の選択でコンパスとなる感情。その感情を具体的に言うと「ワクワクするかどうか」だ。

大学で東京に出たのも、フラダンスを始めたのも、英語がネイティブでもないのに外資系の会社でインターンしたのも全て、「ワクワク」という感情に従ったものだ。
「これをすることで成長したい」「こんな力を得たい」なんていう高尚な考えは何もなかった。

今まで、「ワクワクすること」は全て叶えてきたし、感情論以外の理由なんてない浅はかな私であっても、周りは私を咎めたことはなかったし、応援してくれた。
だけど、一度だけ社会の意見と自分の感情が食い違ったことがある。
そして、周囲に反対を受けながら、自分の感情に従う選択をした。

トルコに行きたい。バイト帰りの電車の中でGoogleに聞く

2022年、大学4年生、趣味だった海外旅行に気軽に行けなくなり、ストレスが溜まった。
「トルコに行きたい」
旅行会社のアルバイト、暇な時間に見ていたトルコのガイドブック。
このまま卒業して働き出したら、気軽に連休を取ることはできない。トルコ行けなくない?
今行くしかないじゃん。

バイト帰り、電車の中で早速、Googleに聞く。
「コロナ 海外旅行」
抽象的すぎる。
検索ワードを変える。
「skyscanner イスタンブール」
「トルコ 渡航制限」
「トルコ 渡航 隔離」
「ワクチンパスポート 申請」
この50倍は調べた。
ありとあらゆる疑問をGoogleに聞き、解決しない問題は留学やら結婚で海外に行った知り合いに片っ端から尋ねた。
そして、「これは行けるな」と思った。
今までの全ての行動が感情論だった私が、理性的に、根拠を持って判断した。

そして家族に打ち明けた。トルコに行くと。
「頭おかしいんじゃない?」
父に言われた。
父と私は相性が悪い。
石橋を叩いて渡らない慎重派の父と、脆い橋を走って渡る適当人間な私。
「周りに言えるのか?そんなこと。非常識だって叩かれるぞ」
「トルコなんて遠いとこ危ないぞ」
「今海外なんて、誰も行ってないだろ」
世間体を大切にする父らしい回答だ。
父と私の仲を仲裁する母からも、「気持ちは分かるけど、今行かなくてもいいんじゃない?まだ若いんだし行ける機会あるよ」。

歓迎してくれる人はいない。世間と対立する私の行動

私は、これまで調べ尽くした全ての情報を提示し、彼らの疑問を全て解消する。
だけど家族は反対する。
「行けるのかもしれないけど、今回はやめときなさい」
そして追い打ちをかけたのは、世間の判断は、家族を支持していたことだ。
友人と食事に行って「卒業旅行どうする?」という話になり、まずは友人の様子を伺う。
「んー、どっか行く?」
「めっちゃ沖縄行きたいんだけどさ、オミクロン増えてるじゃん。行けるかなあって心配」
まさか自分が海外に行こうとしているなんて言えない。

Twitterで「コロナ 海外渡航」で検索すると、出張でレポしている人に対し匿名のアカウントが「この時期に海外なんて呑気ですねえ」と返信している。
留学でパリから帰ってきた友人に連絡を取ると、
「うーん、旅行者は流石にまだいないと思うよ。行ければいいけどねえ」
と返ってくる。
いってきな!なんて歓迎してくれる人は誰もいなかった。
トルコ旅行したいという私の行動は、世間一般の考えと対立していることにやっと気がついた。

私は非常識なんだ、と思い、「やめようか?」とも思った。
もしコロナになって帰ってきたら、どう言われるんだろうか?報道されてしまう?
私の地元は田舎だ。色んな噂が飛び交って、家族が非難されるかもしれない。
いろいろな感情が巡って、考えて考えて考えた。

無事に帰国した。非常識な選択だったが、後悔はしていない

そして、行った。
ワクワクしたからだ。
結果論だが、事故もなく、コロナ陽性になることもなく、無事に観光を楽しんで帰ってくることができた。

そこで学んだことがある。
意見がない私だが、だからといって世間の意見に合わせる必要なんてないということだ。
私はワクワクするという感情があるんだから、それに従えばいい。
海外に行ってみると、日本人は全くいなくて、やっぱり私の選択は非常識だったんだなと思った。
でも、後悔は一切していない。
海外旅行に行くと選択してから、私はこれまで以上に自分の感情を信じて動くことになった。
意見がないブレブレな私だけど、別にいい。
私は自分の直感と感情だけを信じたい。たとえそれが、世間の意見と違ったって。

他人の意見を、自分の意見にするくらいだったら、私は意見がないままでいい。
だって私には、感情があるのだから。