「コロナウイルスに伴う非常事態宣言により、全生徒の海外渡航を禁止します」
2020年4月、私のスマートフォンには残酷なメッセージが表示されていた。私は本来ならば、修士論文を執筆するために、夏に初めて海外へフィールドワークに行くはずだった。しかし、それもコロナウイルスという脅威を前に白紙にせざるを得なかったのである。

日本を出る勇気も、3年かけて貯めた費用も水の泡となった

海外と縁が無い家庭で育った私にとって、このフィールドワークは人生の一大決心であった。海外生活の具体的なイメージをつかむために、海外渡航の経験がある友人に何度も話を聞き、3年もの年月をかけ渡航費用をなんとか工面した。
その矢先の非常事態宣言である。
がんばってポジティブな方向に頭を動かそうにも、「卒業できない」「海外に行くことなく一生を終えるのか」とネガティブな感情が次々と湧き出し、眠れない夜が続いた。

悶々とした気持ちを頭から追い出すため、私は人影が少ない早朝を選び、マスクを着けて近所を散歩するようになった。
散歩のルートは小さい時から歩いていた、ごくごく普通の住宅街。しかし、自粛前の生活は、回り道など許されないタイムスケジュールだったせいか、急に「ヒマ」になった自分の時間を埋めるかのように、普段は入らない裏道に入り、別の道に繋がるまでひたすら歩いた。
こうして私の裏道散策は幕を開けたのである。

姿は見えないのに強く感じた人の息遣い 反省と発見の連続

裏道散策では、多くのことを「発見」した。
自宅から歩いて5分ほどの場所に小さな板金工場があり、入り口では金属製の動物のオブジェを販売していること、毎朝通り過ぎていた公園では、早朝からボランティアの方たちが掃除や木の枝払いをしていること…。
不思議なことに、裏道散策ではそこで生活する人々の息遣いを強く感じたのだ。自粛期間中であるにも関わらず。

散策を続ける中で、私は自粛期間前と比べ、「人」を強く意識するようになった。私が「そこにあるもの」と思い込んでいた町は、実はたくさんの人々によって「作り上げられたもの」だったのである。そして、私はこの奇妙な散策により、「海外に行けなかった」という重苦しい気持ちが、「海外に行く以前に、見落としていることがあまりに多かった」「次は隣町の裏道を散策しよう。どんな発見があるだろうか」と過去の自分に対する反省と新たな場所への好奇心へと昇華された。

今の私は、以前に比べ海外に行けなかったことを後悔していない。なぜなら、私が本来好きなことは、たくさんの人々の意見を訊くことであり、海外渡航を計画したのもそのための手段の一つに過ぎなかったからだ。
そして、「たくさんの人々と会い、話がしたい」という私の感性を再認識したきっかけは、自粛期間中、人々の姿が町から消えたにも関わらず、人々の息遣いを強く感じたあの裏道散策である。人と会えないことで、むしろ「人と会って話がしたい」という自分の感性が呼び覚まされた私は、裏道散策で出会った外国人の人々に頼み込んでインタビューを行い、修士論文を執筆した。

あえて「刺激物」を避け自分と向き合うことも感性を磨く方法のひとつ

自粛期間より前の私であれば、感性について問われた際、「より多くの物事を見聞きして研ぎ澄まされるもの」と答えていただろう。しかしながら、今では外界との接触が途切れても、感性が磨かれることはあるのではないかと思う。外部からの刺激が弱まり、否応なしに自分の心の声に耳を傾けなければならなくなった時、忘れてしまっていた感性が呼び覚まされ、その感性が困難を乗り越える光明となりうるのではないだろうか。少なくとも、私は自粛期間中の裏道散策を通じてそう強く思った。

私たちの世界は、数えきれないほどの「刺激物」に溢れている。それは、誰かの心優しい言葉であり、また誰かの悪意でもある。SNSで誰でも情報を発信できるようになった現代では、数多の「刺激物」に翻弄され、自分の意見かどうかさえ分からなくなり、自分の感性を疑ってみたくなる時もあるだろう。そんなときは、思い切ってスマートフォンやPCを封印し、ひたすら自分の心の声に耳を傾けるのもいいだろう。たくさんの刺激物を浴びてもなお心に湧き上がってくるもの、それこそが真の「わたしの感性」なのかもしれない。